平岡直子


わが影に燕入りたり夕光(ゆうかげ)に折れ曲がるわが胸のあたりに

入谷いずみ『海の人形』(本阿弥書店:2005年)


 

入谷いずみ歌集『海の人形』を読んでいて、外堀を埋めるような比喩をおもしろいと思った。

つぎつぎとくべれば夏の蛾のように炎のなかで羽ばたく手紙
譜面台昼を眠りぬみっしりと翼かさねて蝙蝠のごと
水鳥の羽ばたきのごと少女らがいっせいに傘ふるう玄関
「もういやだ俺はペリカン便に行く」クロネコヤマト倉庫の壁に
おとうとの帽子はしろい鳥のよう真昼の池に浮いていました

とくにこういった生き物に関係する歌に多い。たとえば手紙を蛾に、譜面台を蝙蝠に喩えるのはそもそもそれほど飛躍がある喩ではないけれど、その近い距離をさらに丁寧に埋めているせいか、それぞれの生き物が肉付けされて、喩えられているものを乗っ取らんばかりの存在感をみせる。一首目では「つぎつぎとくべる」ことと「炎のなかで」という景色、「夏の蛾」「羽ばたく」という譬えがミルフィーユのように交互に噛み合って、最後に「手紙」に着地するときには炎と蛾がすでに不可分になっている。次の譜面台の歌は逆に最後にあらわれるのが喩え話だけど、「蝙蝠のごと」という直喩は結句で唐突に置かれるわけではない。遡れば「翼かさねて」からはじまっていて、もっと遡れば「昼を眠りぬ」という擬人化からはじまっているのだけど、読者は結句を読むまでその伏線には気づかないだろうし、気づいたときには蝙蝠は一首に覆いかぶさっている。五首目、どちらも飛んでいくものだという帽子と鳥の共通項を括りだしたあとでの「池に浮いていた」という描写は帽子には戻りきらず、池に生きものの死骸が浮かんでいるような不穏さがある。
そして、これら言葉の上での生き物に息を吹き込む力は、返す刀でほんとうに生きていたはずの生き物のほうを記号にしてしまうようだ。

Sの字のするりと解けて光りつつ青い蜥蜴は草むらの中
透明な硝子のうえに夜がきて花のごとくに守宮(やもり)の足裏

生きて動いているものは歌のなかに痕跡しか残せないのだということを、虚の生き物の存在感と、実の生き物の残像という両側から実証しているような歌たちだと思う。

 

掲出歌に出てくる生き物はその虚実のあいだにいる。歌の最後まで描かれない影の持ち主は、「わが影」が下句で「わが胸」と言い直されるときに(それが「わが影の胸の部分」の略だとしても)「影」に正式に乗っ取られているようである。飛び込んできた燕のほうは本体なのか、あるいは燕の本体は高いところを飛んでいて、一首の光景は影絵のなかでだけ起こっている出来事なのかは歌からはわからないけれど、もともとが黒くて影っぽい見た目を持つ燕は、その両方の性質を行き来する使者にもみえる。燕の両義性は「影(かげ)」、「光」と書いて「かげ」と発声する「夕光」のあいだの屈折を通り抜けるところからも感じられる。この影は、胸に飛び込んできた燕を心臓にして動きだしてしまうのだろうか。

 

「A SOLDIER 」とのみ書かれたる墓碑銘としばし一つの日傘に入りぬ/入谷いずみ