染野太朗


ソファーに座りたるとき尻に触れしものあり声をあげて悔やめり

志垣澄幸『黄金の蕨』(青磁社、2018年)

 


 

なにか硬いもの、こわれやすいもの、猫や犬のしっぽ、あるいは濡れているものを僕は想像した。悔やむ、がとてもおもしろい。「驚く」と言えそうなものだけれども、声をあげたときにはもう悔やんでいる。それに座ってしまった瞬間に「なんだ!?」と確認するのではなく、「しまった、あれだ……」と、わかっている。でも、そのごく一瞬のあいだにも、認識の順番として、悔やむより前に「しまった!」とか「なんだ!?」という驚きの類いがあったはずだと考えてよいと思う。「悔やめり」という一点の感情に至るまでの動作や感覚や気持ちを思うと、あげた声がごく短いものであっても、そこにはわりと長い時間が含まれていると想像できる。座ってしまってから悔やむに至るあいだの、認識を経ることによる時間の幅が、ただユーモアの一首と言ってしまうだけではもったいないような味わいをもたらしている(と言うのもなんだか大げさなようだが)。

 

『黄金の蕨』のなかでも、今日の一首が含まれる「鴉の雌雄」14首はとても印象にのこる一連だった。

 

蚊取線香渦のなかばで消えてゐるしろがねのうすき支柱に載りて
電線の二羽の鴉の雌雄など思はざること幼に聞かる
ダムの水減りゐし夏の風景を隠して満水の水面(みなも)波立つ
国会中継の首相の声がきこえくる田なかのビニールハウスの中に
午後の陽の明るさみちる病廊を盛られし籠の林檎が通る
一滴づつ垂れたるものをすでにして目薬の液枯れてしまへり
魚捌き塵(ごみ)出し終へて午後よりは一人こもりて三鬼を読めり

※( )内はルビ

 

見る、聞く、思う、感じるということの丁寧なありようが、一語一句の、そして韻律のありようそのものから伝わる。歌の構成や描写がシンプルであっても、こちらの五感が思いのほか刺激される。一首一首が直接に描いている範囲の外にある情報や時間に厚みがある。例えば二首目。「幼」と電線を見上げる。そして「たしかにあれは番いなのかも」と思い、さらにこのあと「どうやって雌雄を見分けるのだろう」などと調べたかもしれないな、といったことまで僕は想像する。短歌において、子どもの意外な観点によって歌が立ち上がる、詩が生まれるということはけっしてめずらしくないと思うのだが、「思はざること」というふうに自分の判断・思考が詠まれているからこそ、子どもの観点や思考だけに歌の核が流れてしまうことなく、その後に展開したであろう思考にまで考えを及ばせることができるのだと思う。六首目、ひとりでじっくりと西東三鬼を読むことの充実、と単純に言ってしまうのはためらわれるくらい「魚捌き」が印象的だ。初句のたった五音(個人的には、さかなさばき、とサの音を利かせて勢いよく六音で読みたい)に凝縮されているけれども、ここには魚の感触もにおいもあるし、捌くときの音、包丁を握った姿、そして二句目も合わせると、捌いたあとに生ごみをまとめる姿まで想像できる。動(魚を捌く、ごみを出す)と静(こもって三鬼を読む)、生活と文学、といったような対比も可能だろうし、三鬼の句とこの歌との関連も見い出せるのかもしれないが、まずはこの一首の含む時間の幅や体感を味わいたくなる。

 

今日の一首も、触覚や聴覚も意識できるし、また、歌の景を外から眺める読者にはその「触れしもの」がついにわからないゆえに、景を見ているにもかかわらずそれは想像するしかなく、それによってふだんの「見る」というのとは別のかたちで視覚が刺激される感じがある。本当におもしろい一首だ。