無口なる姉妹を産んで編み物も刺繍も蜘蛛のようにする母

遠藤由季『鳥語の文法』(短歌研究社:2017年)


 

編み物も刺繍も少しだけかじったことがあるけれど、一本の糸が絡まったり集まったりして面になっていくのはすごく不思議なことだ。自分の手を動かして作っているはずなのにどういう仕組みでそうなってるんだかぜんぜん呑み込めない。「この棒にこう糸を引っかけろ」とか「ここからここに針を刺せ」とかの指示に忠実に従うことを細かく積み重ねるとなんかいつのまにか複雑な形になっている。つまり完成品は自分ではなく指示がつくったものだともいえるけれど、やっぱり自分がつくったものでもある。自分がなんらかの意思の言いなりになる道具でありつつ、同時に自分は道具を言いなりにさせる意思である、というあの奇妙な二重性は、世界征服の手っ取り早い疑似体験のようにすら思う。
掲出歌は、いわば血縁という一本の糸がからまって、もとが一本の糸だったとは思えないような絵になっている歌だと思う。この歌は語彙だけをみると女系家庭のある古風なイメージを再生産できそうで(おとなしい姉妹、家庭的な母……)、その場合に蜘蛛は巣作り=家庭の維持のメタファーになりそうだし、あるいは蜘蛛という譬えを嫌悪感の表れだと解釈して、母娘関係のべたつきを読む方向性もありえそうだけれど、しかしけっきょくそのいずれからも遠く、人間とも虫とも言葉ともつかない、けれどそのどれでもあるものたちの関係性がみえるだけだ。
「産む」ことと「蜘蛛が糸を吐く」ことの類似性は、いったん「姉妹」と「手芸作品」を同列のものかのように引き寄せる。けれど、蜘蛛の「ように」という直喩は、母が現実には蜘蛛ではないこと、毛糸や刺繍糸は母から吐かれたものではなくどこか他所から引き出されているものであることをすぐに思い出させる。母から出ているようにいっしゅん錯覚した糸の出所が他所に移るときに、「姉妹」の出所もぐらつかされる。また、上句の「無口なる姉妹」という言いかたはなんだか他人事のようで、そこに発話者が含まれていることは最初は想定しないけれど、結句で「母」が出てくることによって逆算して「姉妹」のなかに「私」をねじこまざるを得ないとき、「私」と「母」のあいだに生じるねじれは「産んで」をすんなり通らせない。(「無口なる姉妹」に自分自身が含まれないという可能性もあるけれど、なおさらねじれる)
論理や文構造のずれが生物学的なつながりはどんどんずらしていくけれど、そのずれが歌のなかに別の血縁を線描する。たとえば彼女たちはともに無口である。母は無口とは歌には書かれていないけれど、蜘蛛はそもそもしゃべらないし、この歌のなかでの「蜘蛛」が糸を操る性質が拡大された比喩である以上、比喩の上ではこの蜘蛛のなんらかの口は言葉ではなく糸でふさがっているはずだ。「編み物と刺繍」という並置もなんだか姉妹っぽい。似ている生き物、似ている言葉がその類似性に役割を負わず(それこそ無口に)、のびのびと似ている様子が模様のように楽しい。血縁がほどかれ、編みなおされている一首だと思う。