染野太朗


ほととぎす喧(やかま)しきまで鳴きつのる山の校舎やマル読みの声

麻生由美『水神』(砂子屋書房、2016年)
※( )内はルビ

 


 

『水神』のこの一首がとても好きで、でもなぜ好きなんだろうと今回改めて考えてみたのだが、その理由はかなりシンプルで、「マル読み」という語そのもののなつかしさや、学校独特のそのやり方(念のため説明しておくと、教室で生徒たちが文章を一文ずつ、「。」で区切って交代で音読するのが「マル読み」。丸ごと読む、ではない)が歌に詠まれていることのめずらしさ、たのしさにまず僕は反応したのだろうな、と思う。

 

それからこの歌、いかにもやかましい感じがして、それはいったいどこから来ているのだろうと考えてみたのだが、やはり一首の音の構成も理由として大きいのだろうな、と思う。まず「ほととぎす」の「とと」や「ぎ」の濁音が妙に目立つ。「喧しき」とそれが形容されることによって、歌の内容のなかに聞こえてくるほととぎすの、あのけたたましい高音の鳴き声そのものとともに、ホトトギス、という音そのものが音量を上げるような感じ。その、内容と言葉それぞれにおける音が、さらに「鳴きつのる」と説明されて迫力を増す。それから、こまかいことを言うと、「ほととぎす」「喧しき」「鳴きつのる」はそれぞれ五音でほぼ同じ高低をもち、鳴き声に関するそれらの音が同じリズムで初句からどんどん押し出されてくる感じも、いかにもやかましいなと思う。それが、山の校舎「や」、と言って唐突に詠嘆される。ここで大きく「切れ」が生じる。この「や」がたいへんに効果的だ。「ほととぎす」「喧しき」「鳴きつのる」といった言葉そのものの音とほととぎすの鳴き声が、この「や」が生じさせた空間によって、山と校舎を覆うように広がる。そのあと、校舎・教室内へと場が移る。マル読みの声が聞こえてくる。「山の校舎の」とか「山の校舎に」だったら、四句までは、「マル読み」を一首に導入するための単なる説明となってしまって、ほととぎすの鳴き声がひびきにくくなると思う。「や」でふっと音の空間が宙吊りされるからこそ、ほととぎすの声がいつまでもひびく。

 

この一首はまさに「音」だけが描かれた一首なのだと思う。「ほととぎす」「山」「校舎」はそれぞれ景を導くはずだし、「マル読みの声」の主はもちろん生徒であるはずなのだが、この歌の映像的な部分はとても淡くて、とにかく音のほうがよほど目立つ。ほととぎすは複数でない可能性も高く、また、マル読みも基本的にはひとりずつの音読だから、内容上はそこまで音に満ちた一首ではないはずなのだけれども、この一首からは、極端な話、山をひびかせる蝉の鳴き声のようなものをさえ僕はイメージしてしまう。ほととぎすの声によってマル読みの声も生徒の姿もかき消されてしまう、というような感じ。もちろんそれは僕の誤読の類いで、やかましいと言っても、ほととぎすの声ひとつ生徒の声ひとつがそれぞれ山の学校の教室にひびいている、そのようすがあるいは読者の郷愁を誘う、といったような鑑賞の仕方が読みとして一首に忠実なのかもしれないなとは思うのだけれども。