終電のゆきたるのちの柿生駅灯りて駅の風格保つ

岩田正『いつも坂』(短歌研究社:1997年)


 

この歌で灯っている駅は、馬場あき子の〈女子フィギュアの丸きおしりをみてありてしばしほのぼのと灯れり夫は〉なる歌で灯されている「夫」のことは忘れて読みたい。その「夫」が詠んだ〈イヴ・モンタンの枯葉愛して三十年妻を愛して三十五年〉やその他のサービス精神のことも。
柿生駅は小田急線沿線の東京都だか神奈川県だかややこしいエリアにある小さな駅である。電車の歌、駅の歌がそもそも多い岩田正の作品にこの駅がとくにくりかえし登場するのは、この駅名が「あき子」のアナグラムだからなのか、いやだめだ、忘れるんだった、アナグラムだからではなく、作者がながく住んでいる駅なのだと考えられる。つまり、字面や語感から連れてこられた名詞ではなく生活の刻印だけれど、この歌のなかでは駅名は効いているといえるだろう。「柿が生る」という駅名が灯るのは、秋にまさに灯るように成る柿の実を連想するし、「柿」と「駅」の音の相似もある。「柿生駅が灯る」という字のつながりにふれるときに読者の脳裏に淡くひろがる豊作の柿は、駅が建つよりずっとの昔のその土地の景色にすこし似ているかもしれない。
終電が去ってから駅が消灯するまでの時間はほとんど誤差のような短い時間だ。掲出歌ではその小さなのりしろの時間にだけ保たれる風格が見いだされている。電車や乗客の出入りがあるあいだは問われるまでもないので前面には出ず、のちに駅が完全にクローズすると消えてしまう類のものだ。役割の残光のような無意味なかがやきが、駅自らここぞとばかりに意思的に発しているかのようにとらえられている。
駅はまもなく営業を終了して風格も消えてしまうはずなのに、一首に消灯の予感はなく、この寂しい景色はずっと続くかにみえる。岩田正の歌は、内容、接続、設定がけっこうアクロバティックなものも多いのにつねに安定感があるのがすごいなと思うのだけど、その理由のひとつは予感を詠わないところにあると思う。まもなく崩れてしまう、廃れてしまう景色をつかまえるけれど、そのあやうさに歌は気がついていないようですらある。シンプルな建造物のような文体の「風格」は、ほとんど人柄と呼びたくなる滲み出かたをしている。