すぐにもどるつもりの軽きよそほひに街上を過ぎ野の歩みなり

寺島博子『一心の青』(角川書店、2017年)

 


 

語の構成のきわどいバランスの上に意味を伝えてくる歌だな、と思う。「野の歩みなり」がもし「野を歩みをり」だったら、はじめから野道まで出るつもりがあって、それでもすぐにもどる「ような」軽装で外出をして街を過ぎ野に出た、ということになると思う。それが「野の歩み」というふうに言うことで、自分の行動を俯瞰でとらえている感じが生じ、意思にかかわりなくいつのまにか野に出てしまった、そういう自分にはっと気づいた、という意味合いを確保することになる。この人物にとって意外だったのだ、ということがわかる。すぐにもどるつもり「の」軽きよそほひ、という言い方は実はとても曖昧で、つもり「で」、という単純な意思としても読めるし、すぐにもどる人が着る「ような」、という比喩にもとれる。けれどもこれが比喩ではないとわかるのは、「野の歩みなり」という結句が、いま見たように、本人にとって意外だった、ということを伝えるから。

 

その上で、野の歩み「なり」という言い方そのものには、驚きが感じられない。淡々とその事実だけを述べる感じがある。また、街上を「過ぎ」という順接そのものも、「野の歩み」ということがあらかじめわかっていたかのような接続として読める。はたから見るとちょっと異様な行動だが(街から野への変化に途中まで気づいていなかったわけだから)、それがごく当然のことのように描かれる。それから、具体的にそれがどこなのか明かされない「街」と「野」は、語彙レベルで抽象度が高い。

 

順接と断定、そして下の句における場面の急展開と語彙の抽象性は、この一首に、ある浮遊感を与えているように思う。この「街」も「野」も現実世界のものではない感じがする。疲労によるのかなんなのか、とにかくふらふらと歩きつづけてしまった人物が、ぼんやりとした意識のなか、それでも自らの行動についてははっきりと把握している、というふしぎな浮遊感。陳腐な言い方になるけれども、夢の中の話のようだ、と思う。(ちょっとこまかいのだが、初句が「すぐもどる」でなく「すぐにもどる」であるということの効果は思いのほか大きいと思う。「に」によって調整されたテンポやリズムやアクセントは、一首を急がせず、浮遊感を下の句や結句のみのものとしないで、一首全体に固定しているようなところがある。詳細は省きます。)

 

さらにその上で、この歌のいちばん大事なところは「どこにもどるはずだったのか」ということが伏せられているということ。住む家なのか。あるいは、過去なのか。だれか人物のもとへ、なのか。「もどる」「軽きよそほひ」「街」「過ぎ」「野」「歩み」といったことがすべて象徴性を帯び得る。構造にまで観念・抽象といったことを確保する仕掛けがあるからこそ、それが可能になっているという気がする。読者はこの一首を下書きにして、あらゆる物語を編むことができる。一首全体をなにかの比喩として読める。

 

素朴に鑑賞を付け加えておきます。軽装のまま野を歩む人。どこか場違いだけれども、浮遊感のなかにむしろ解放的な感覚を得ている感じがある。あるいはほぼ逆で、ろくな心の準備もないまま、困難な歩みのなかに立たされている、というようなことだろうか。なんらかの予感や諦念をさえ伝えてくる一首だと思う。

 

星いづるまでのいくばくうちにもつ落暉のいろを宥めがたしも/寺島博子