平岡直子


切り傷の乾ききらずに夏来たり交差点の百合はあたらし

藤田千鶴『白へ』(ふらんす堂:2014年)


 

街を歩いていて交差点、とくに信号がある交差点に差しかかるといつもすこしだけ緊張し、高揚するのは、わたしには交差点が道同士の戦いの跡にみえるからだ。出くわしてしまった剣豪同士が剣を交えざるを得ないように(?)、別々に延びてきた二つの道がそこで出会ってしまったばかりに力を比べ合う、その痕跡が交差点には残っているような気がする。眼に入るものをかたっぱしから擬人化しながら歩いているわけではないのだけど、どうして交差点にだけそういった物語を見立ててしまうようになったのかは自分でもよくわからない。この道同士の戦いの勝敗は信号の長さによって可視化される。勝者の道の青信号は長くて、敗者の道の青信号は短い。とは言え、道の強さは太さや交通量によって決定されるので、だいたいはどちらが勝者なのかは一目瞭然なのだけど、互角な規模にみえる道が交わる交差点もときどきある。そういったハイレベルな戦いにはより緊張が高まる。
だから、交差点に花が添えられることも、しかもそれが「百が合う」という、いかにも大きな交差点に似つかわしい字面の花であることもわたしには自然な発想だったせいで、掲出歌を魅力的な歌だと思って立ち止まったものの、「交差点の百合」が、交通事故があった場所に供えられる花を指しているのだと気づくのにはしばらくかかった。正確にいうと、連作中で掲出歌の次に〈この場所が誰かの悲しい点である交差点で待つたび思う〉という非常に説明的な歌が置かれていて、その歌に目を移したときにやっと合点がいったのだけど、それがなかったら気づかなかった可能性が高い。
供えられた花が新しいというのは、ごく最近そこで人が亡くなったのか、あるいはそこで亡くなった人を時間が経っても忘れずにいる人がいることを意味する。それは誰かにとっての「乾ききらない傷」であり、作者はそこに自分の身体的な傷の感覚を重ねて心を寄せているのかもしれない。しかし、この歌はそういった哀悼を押しのけて、やはり交差点の歌だと思う。

「空室」の目立つ長屋の前にあるいちまいの田を風あやすなり
おじいさんが集団逃亡したあとの景色みたいだ冬の蓮田は
街灯のいっぽんとして見ていたい夕焼けに壊れかけのアパート

こういった歌を歌集のなかでとくにいいと思ったけれど、これらの歌にあらわれるがらんとした無人感は掲出歌と共通するところがある。それは「空室」や「壊れかけのアパート」などのモチーフが直接的に演出している部分もあるけれど、田と風、街灯とアパートなどの交差が歌を充たしていることにもよると思う。人間の営みの横をかすめることで、人間の営みをおもしろい景色のようにみせてくれる。
そもそも切り傷は皮膚と鋭利なものが交わってしまったときにできるものだ。夏の訪れは二つの季節の接点ともいえる。掲出歌のなかには大小さまざまな交差点と、それぞれの交差点を構成する二者の力関係の残像がある。百合が下句に出てくるときに、上句の「乾かない切り傷」はどこか切り花の断面、茎と鋏の交差も連想させるし、その印象は人体と百合をねじれの位置で交差させるようでもある。いったんは鋏に切断されたはずの百合は、しかし、乾かず、あたらしく、夏という生命力のつよい季節を従えて、一首のなかで最もつよい存在感を放っているようにみえる。百合の勝ちだ。