染野太朗


青葉闇 暗喩のためにふりかえりもう泣きながら咲かなくていい

井上法子「素直に届けられる夜」(「早稲田文学増刊 女性号」、2017年)

 


 

「素直に届けられる夜」は10首からなる。

 

へんな読み方ですけれどもごりごりいきます。

 

あまりに安っぽい言い方になってしまうのだが、一読して、この歌は読者としての自分の心にふかく寄り添ってくれる一首だと思った。でもそう思えるのもほんの一瞬で、この歌は自分をすぐに離れていく。結局は離れていく、という点においてやたらと悲しい歌なのだが、その「悲しい」というところにおいてしか「咲かなくていい」とこちらに向かって声をかけてくれないし、寄り添ってくれない。そしてその「寄り添ってくれない」というところにこそ僕はリアルな手触りを感じる。

 

声をかける、といっても本当にこちらに向かって放たれた声なのかどうかはわからない。「咲かなくていい」はそれくらい、日本語のあり方として、歌のなかで甘い。「~ていい」はブレる。例えば、誰かに向かってそう呼びかけているのかもしれないし、自分自身に向けて「咲かなくてもいいのだ」と確認しているのかもしれない。それで、語法の甘さ、というのはこの一首においておそらくもう二つくらいある。「ために」と、「ふりかえり」という連用形(順接)。どちらも機能や意味を確定しにくい。

 

ここでちょっと歌を解釈してみる。何かを暗喩としてとらえるというのは、ものごと・誰かの言動を、そこにあらわれている外見以外の意味や象徴性をも引き込むものとして感受・認識してしまう、ということだと思う。誰かがふいに笑ったとして、それはただ単によろこびの笑いかもしれないのに、それが深いところで嘲笑に通じているようにも見えたとか、あるいは、今生の別れのあいさつに思えたとか、そういうもの。そういった「暗喩」に足をとられて、いつまでもふりかえってその「暗喩」を見つめつづけ、苦しんで、泣く。けれども、そのようにしてものごと・誰かの言動によっていつまでも感情を動かされてしまうというのは、その「感情が動く」という点において、いかにも人間らしい。大げさだしまたもや安っぽい言い方になるけれど、「生きる」とは、そもそもそういう側面ももつ。その「生きる」を、「青葉」(つまり植物)という語彙にみちびかせる形で「(花として)咲く」という語彙でもって表現している、と僕は読んだ。その上で「もう、泣くということによって、苦しむということによって生を営まなくてもよいのだ」とこの歌は言っているのだと思った。

 

けれども、「ために」と「ふりかえり」は甘い。だから、僕がそのような解釈にぐっと踏み込むのを妨げる。

 

例えばこの「ふりかえり」という順接だが、結句の「~ていい」の甘さとも相まって、「ふりかえる、ということをすることによって、咲かないで済む」という意味にも取れなくはない。それから、「ために」も、「原因・理由」と「目的」の意味がある。例えば「雨のために濡れた」という文は、ふつう「雨のせいで濡れた、雨が原因で濡れた」というふうに意味を取るだろうが、「雨がよろこんでくれるように濡れてあげた」というような内容にならなくもない。短歌の場合は特に、文脈を一首のうちに(そうでないことももちろんあるが)探すしかないから、意味の確定を一語一句そのものに求める必要も生じ、そういったブレは起こりやすい。ややこしくなるのでこれ以上は説明しないけれど、たとえ結果的に僕の上のような読み方しかありえなかったとしても、「ために」「ふりかえり」「~ていい」あたりに日本語の機能・意味上のブレが生じ得るということそのものは、最終的にその読み方で確定させるための検証の手続きを(わりと煩雑に)要求してくる。歌にすんなりと踏み込んで「ああ、もう苦しまなくていいんだ」と言ってカタルシスを得る、などというところの一歩手前で、読者としての自分を慎重にさせる。歌の世界にどっぷりつかる、というのをためらわせる。歌はそもそもそんなことを言っていないのに僕は勝手に日本語をねじまげて都合のいいように解釈してしまったのではないか、とふりかえらせる。

 

それでここからが今日の大事なところなのだが、そういう語法上の「甘さ」はふつう歌の〈傷〉として読者をしらけさせたりするはずなのに、僕はこれを〈傷〉として退けることができず、むしろレトリックの一部として読んでしまう、それはなぜなのだろう、ということ。歌の内容に没頭させてくれないということそのものが、「ものごとや人の暗喩的なありようから解放されるなんてことはありえないのだ」と、「生きる」ということの当然を突きつけてくるようで、リアルであり、ついに寄り添ってはくれないということにおいてむしろ歌を信用してしまう。これはちょっとへんな事態だ。歌の言葉を信用しすぎているということなのか。甘いはずがないという前提のもと、その言葉を配した作者を信用しすぎているということなのか。あるいは、自分の心のなにかを歌に投影しすぎなのか。この歌の中心は、ものごとの客観描写ではなく観念の表出にあるから、情景を再現することでなく、内容を解釈する、感想をもつ、ということが読みの中心になって、語法の〈傷〉にあまり意識が向かないということなのか(いや、それは一語一語に対してあまりに無責任か)。「(青葉)闇」が「暗(い)」という語をみちびき、また、上にも触れたように「青葉」が「咲く」をみちびくというのも、意味を超えたところでの歌の説得力を自動的に増しているというような感じがある。……とここまでくどくどと考えているのに、一向にこの歌が分解されていかない。この歌は自分を離れていくはずなのに、「泣きながら咲かなくていい」という曖昧なフレーズによって、最終的には、勇気づけられてしまう。

 

とてもあかるい思い出なのに 魚影 言えないままの悲喜はいったい/井上法子