戦争に見えて思わずうろたえる「食事とコーヒー」の字体が変で

倉阪鬼一郎『世界の終わり/始まり』(書肆侃侃房:2017年)


 

仮にここが歌合会場だった場合、敵チームからこの歌が提出されたらわたしはまず「思わず」を叩くと思う。「思わず」や「ふと」など、予期していなかったことを強調する副詞は説明的だし、作為がみえてしまって逆にわざとらしい。次に「戦争」を、つよい異化作用がある名詞の安易な使いかただとして批判する。下句の発見は妙な迫力があっていいと思いますけど。
だけどここで念人として言いたいことは、「思わず」こそがこの歌の大切な要なのだということだ。戦争に見えたものに心底うろたえていたりしたらこの歌は台無しになる。
ひとくちに「戦争」といっても、現実に起こっている、または起こっていた国家間の戦争、現実の戦争を踏まえてある状態や個人の心情を描写する比喩として使われる戦争、そういった比喩が一部こなれて「受験戦争」のように流通している言葉などいろいろなレベルの用法があるけれど、掲出歌には直感的に「この戦争とは太平洋戦争のことだ」と感じた。そう感じた理由は細かい部分からも説明できると思うけれど、基本的には「戦争」という言葉とある禍々しいイメージの結び付け方に見覚えがあったからだ。

戰爭のたびに砂鐵をしたたらす暗き乳房のために禱るも/塚本邦雄

掲出歌はこういう歌のいわば廉価版や贋作のようなものである。戦後につくられたこういう歌によって短歌が「戦争」を記憶しているから、具体性がなくてあまりに輪郭の淡い「戦争に見えて」が表現として成立する。そして、贋作には贋作の礼儀がある。「思わず」のわざとらしさは、ここに決してリアルな狼狽や、まして個人的な戦争があるわけではない、という足の置き場を作っていると思う。使おうとした定型のなかが空っぽじゃなかったから、もともと入っていたものを組み入れて歌をつくった。掲出歌からはそういう印象を受ける。この歌についてわたしが個人的に惹かれるのはそういった短歌の文脈への接続のこじれ方(この歌集中にはそのこじれ方がいささか軽薄に感じられる歌も散見されたものの)なのだけど、同時に、こういう歌が「だからおまえも戦争を詠め」という声にもっとも応えているものなのだとも思う。「戦争」を「受験戦争」に書き換える第一歩として機能しない表現は、歌のなかでの言葉の働きを更新しないからだ。できるだけながく聞きとり続けるためにエコーを延命しているようなものだからだ。

 

だから おまへも 戦争を詠め と云う声に吾はあやふく頷きかけて/光森裕樹