鉄棒にぶらさがる子のまなざしの先ひらきたる花水木、白

宇田川寛之『そらみみ』(いりの舎、2017年)

 


 

「鉄棒」の棒と「子のまなざし」が立体交差で90度を保っていて、その「まなざしの先」に「花水木」がある。鉄棒にぶらさがる子の身体、というT字も見える。それが、〈点〉と〈線〉で構成された、いかにも「図形」であるというような景を歌のなかにもたらすのだが、後半、「まなざしの/先ひらきたる/花水木、白」という句跨り・切れの位置には、「まなざし」をいったん詠み据えて「視線は〈線〉である」ということを確認してから、一呼吸おいてその「先」を意識し、その「先」という〈点〉をきちんと確認してから「花水木」をまたその〈点〉として確認、その上でさらに色が「白」であることを確認する、という、指差し確認を無心に生真面目におこなっているような感じがあって、それが、機械が自動的に線を描いて景を構成していくような硬さをもたらし、やはりその「図形」ということをつよく印象づけるように思う。全体のころがるような韻律や、後半のキの音の響きもそれを支える。そのなかで「ぶらさがる」「まなざし」「ひらきたる」というひらがなは、やわらかく「子」と「花水木」に寄り添い、「白」をかならずしも冷たい印象、無機的な印象にはしない。かといって「白」が色彩や情に溢れているかといえばもちろんそうではなく、ただそこに「白」があるということだけが、軽いアクセントをともないながらも中立的に示されるだけである。

 

『そらみみ』に描かれる「子」は、たいへんにかわいらしい。

 

前髪をはじめて切られ泣きべそをかきにし吾子はわが膝に乗る
をさなごは枝豆ひとつぶづつ食みぬわれが麦酒を呑むかたはらに

 

「わが膝に乗る」「ひとつぶづつ」という動作がかわいらしい。『そらみみ』の歌は全体に韻律がおだやかだ(韻律について踏み込みたい気持ちは、また例によって文章が長くなるので、抑えます)。それは、周囲や自らを見つめるまなざしの冷静さと切り離せないものだと思うが(『そらみみ』に描かれている個々の内容は決しておだやかなものばかりでなく、葛藤や不如意等々も十分に読み取れるのだが、それを見つめるまなざしそのものは淡々としておだやか、という感じがある。……そのあたりも踏み込むと長くなるのでやめておきます)、その、韻律のおだやかさが、まなざしをより丁寧な印象にしていて(丁寧なまなざしが韻律をおだやかにする、という側面もあるので、これはちょっと微妙な話なのだけれども)、過剰に情を込めたり逆に突き放したりというところには陥らないままで、ただ「子」のかわいらしさだけを歌に詠み込む、というようなことを可能にしている感じがする。もちろん上の二首の場合は「前髪をはじめて切られ」「われが麦酒を呑むかたはらに」といった場面設定も大きく影響しているけれども。

 

さらに、『そらみみ』の「子」の歌には、〈時間〉と「歩む」「走る」といったことがとても印象的に描かれている。ここにそのごく一部を引いてみる。

 

お気に入りの枯れ葉をポケットに入れて全力疾走繰り返す子よ
ねこじやらしを我に教へてくれし子と木陰の歩みしばしゆるめぬ
補助輪をつけて娘は疾駆せりそのあとを追ふわれの小走り
補助輪をけふより外せる自転車よ団地の庭の子のあとを追ふ
長靴を履いて駆け出す子のあとを距離保ちつつ追ふはいつまで

 

今日の一首について僕はそのいかにも「図形的」な面を強調して読んでみたが、いま挙げた歌、特に「子」のあとを追いかけるような歌には、「子」と「われ」という〈点〉とそれをつなぐ〈線〉が感じられるし、そこには必ず「追ふ」ときの〈時間〉が長く感じられる。「追ふ」ということでなくても、歩いたり走ったりの軌跡としての〈線〉(必ずしも直線ではないけれど)が見える。そしてそこに〈時間〉が見えてくる。

 

「花水木」の「白」には長く「まなざし」がとどまっている。「、」の影響も大きい。だからこの「白」にも〈時間〉が感じられる。「子」の「まなざし」、そして「われ」の「まなざし」という〈線〉に含まれた〈時間〉である。

 

最後に、とにかくその〈時間〉ということを感じさせる歌を『そらみみ』からすこしだけ挙げる。二首目と五首目のような、一見すると〈空間〉が意識されるような歌も、僕は〈時間〉の歌だと感じている。〈時間〉が厚みをもって、しかもさりげなく一首を流れている。

 

入浴剤の溶けゆくさまを子と見つつ互みに語る今日の出来事
拝啓と書きて空白、かなかなのこゑは驟雨にかき消されたり
友だちのいまだ減りたる経験のなき子の眠る鞴(ふいご)のやうに
書棚より取りいだしたる一冊の付箋の意味をしばしおもひぬ
てのひらのうへに落ちたるはなびらを見つめるひとが風景となる

※( )内はルビ