ほしみゆえ「ひかりさす」第一回石井僚一短歌賞受賞作(「稀風社の貢献」2016年)
※文中の引用は同誌に収録の選考会記より
ひらがなを多用する作者はだいたい頑固だ。この歌も、この連作もそう。わたしは「いれものが似ている」ものとは短歌のことだ、と反射的に感じ、同じ言語、同じ定型を使っているはずなのにわかりあえていないことになっている数々の歌同士、歌人同士について一瞬にして思いを馳せてしまったけれど、この歌についての寺井龍哉の以下の発言を読んで、なるほど、と思う。
これは体のつくりが人間同士みんな似ているけれども、でもそれだけなのになぜ心までも「わかりあえるとおもってしまう」んだろうって言っている歌だと思うんですよね。
よく考えたら短歌は「似ているいれもの」ではない。歌と歌は似ているかもしれないけれど、定型といういれものは似ているわけではなく「同じ」だ。つまり、寺井の読みかたのほうが妥当だと思う。
そう読んだ場合、この歌のなかでは人間が「いれもの」と「中身」のふたつの要素に切り分けられている。しかし、その境界はどこにあるんだろう。寺井はおそらく便宜上シンプルに「体のつくり」と「心」に分断しているけれど、実際にはそのふたつの関係は複雑なものだし、「体/心」ではなく、社会的な立場を「いれもの」と取ることや、内臓を「中身」と取ることでもできるだろう。そういった可能性をすべて含むような含まないような、自らの輪郭をごく薄い皮膜のような身体性としてのみ意識する性質は同連作中の〈毎晩のようにかよったあの川がいまはわたしのなかをながれる〉などからも感じられるかもしれないし、海月のようなやわらかさの文体に通じるところでもある。
中身がなんにせよ、「いれもの」という言いかたには潔いまでの中身の優位性がある。いれものは中身を保持するための器官でありそれ以外の役割はなく、メインディッシュは中身だ。にもかかわらず、いれもののほうの類似性に何かをつよく期待するところには自己矛盾があって、「なぜだろう」はそこに向いている葛藤だろう。
だけど、人がいれもの+中身でできているという考え方をそもそも必ずしも人は採用しない(短歌がいれもの+中身でできているという考え方も必ずしも人は採用しない)。さらに「似ている」といえる範囲はどこまでなのかという問題がある。仮にフォルムが似ているものとわかりあえる可能性があるのなら、人とロボットは、人とチンパンジーは、人と雪女は、人と人形は、人とバス停は、「わかりあえる」という錯覚を抱くだろうか。
他者と「わかりあう」ことが幻想か否かという設問以前に、この歌には「いれものが似ている」という思い込みが幻想であることが立ちはだかる。そして、その幻想からは一歩も動く気がなさそうである。だから、この歌は決して「いれものが似ているもの」とわかりあえることはないだろう。そして、なぜだろう、それをうれしくおもってしまう。