泣ききれず泣きやみきれず六月の空こきざみに肩をふるはす

福士りか『サント・ネージュ』(青磁社、2018年)

 


 

「泣きやみきれず」という言い方はそれ単独で出てきたらどこか不自然さののこる言い方だが、「泣ききれず」というのに対比される形で現れ、さらにこの場合の「泣く」は「雨」のことだとわかるから、その不自然さがむしろテコになって、「泣きやみきれない、ってどういうことだろう。どういう心情だろう」と想像をうながしているように思う。曇天がひろがる。強く降ってそのあときっぱりと止む、というのではなく、雨が降ったり止んだりをくりかえす。その雨量は多くない。けれども長く曇天がつづく。悲しみや無念が、けっして大きなものではないけれど、いつまでも心身を離れていかない。「六月の空」そのものを直接に擬人化しているわけだけれど、「六月の空」に心を寄せているというより、「泣ききれず泣きやみきれず」という状態だった誰か(自分かもしれない)を思い出してそこに寄り添おうとしているのだろうな、というようにも読んだ。ふるえるその肩をやさしく抱くようなイメージ。

 

『サント・ネージュ』には次のような二首も含まれている。

 

白象の群れゆくごとし冬雲は降りきれぬ雪を抱へて眠る
降りきつてしまつたか雲ひとつなく春の粒子が空にきらめく

 

二首目の下の句は、空に春の光があふれているような描写で(春の粒子がきらめく、という表現は陽光のみを指して言っているのではなくて、春の空気感とか、場合によっては桜の花とか、さまざまなものを含んでいそうだ)、よろこびやたのしさも伴うが、降りきつて「しまつた」か、あたりには「降りきる必要はなかったのに」「ちょっと残念だ」といったニュアンスを読めなくもない。そこから逆算して別の歌をとらえるのはかなり乱暴なのだけれども、「泣ききれず泣きやみきれず」「降りきれぬ」は、決してそれが退けられることを望んでいるようなニュアンスではないのかもな、などといったことも思う。思いきり泣くことができず、かといってしっかりと泣ききることもできない。いつまでも「降りきれぬ雪」を抱えてしまう。でも、なにかが完全な解放に向かうということのほうが稀なことで、そうならない、それができない、ということをこれらの歌は決して否定せず、しずかに見つめているようにも思う。

 

『サント・ネージュ』には、教員として過ごす学校の歌や祖母・母・父をはじめとした親族の歌、酒や津軽の風土の歌、原発の歌等々が詠まれている。それで、素材で言えばそういうふうに分類できる歌なのだが、素材にかかわらず、上の三首も含め、読み手の身体の感覚をさまざまに刺激してくる歌に僕は特に注目した。たとえば、

 

オレンジの螢光チョーク浮き立ちて六月二十日けふ梅雨に入る

 

という歌。蛍光色のチョークというのは、種類にもよるのだろうけれど、白やその他の色のチョークとはそもそも材料かなにかが違っていて、湿度の高いときに使うとちょっと「浮き立ちて」となる感じは、教員経験が僕自身にもあるものだから、「わかるわかる」と思ってつい立ち止まったのだが、学校現場に限らず、日々使っている物の、それを日々使っている人にしかわからない季節ごとの手触りの変化、というのは確実にある。ここでは、オレンジのチョークがもたらした微差を感じとる触覚(と、もちろん視覚も。そもそも、チョークを使ったのでなく、置いてあるチョークを見て「浮き立ちて」いるように感じたのかもしれない)が印象的だ。シンプルな構造の歌だが、〈身体の感覚〉ということをつよく意識させる。

 

身体の感覚を刺激する、とひとことで言っても、それが歌の内容による場合も韻律(修辞)による場合も、一首全体による場合も語句のどれかひとつによる場合もある(ふつうはそれらすべてが掛け合わさってあらわれてくるものだと思うが)(だから必ずしも〈身体〉が詠まれている必要はない。〈身体〉が詠まれていなくても読者の〈身体の感覚〉を呼び覚ますような歌はいくらでもある)。そしてそれは読者ひとりひとりの身体に基礎をおいて感じるしかなく、自分以外の読者と共有可能なものかどうかと言えばとても難しいところではある。でもたとえば、

 

砂鉄ふるごとき真夏夜払ひても払ひても身にまとひつく闇
ゆふべには降りくる雪かカーラジオにぢりぢりと音の網かかりたり
出し切れず残る力の重たさにうなだれてをり敗けし少年
足先の冷えて目覚むる午前四時けさ搔く雪を思ひ目を閉づ

 

といった歌はそれでも、身体ということを意識しながら読みやすい歌だろうとは思う。

 

やわらかく風通しのよい韻律が印象的な歌集だった。

 

忘れゐきわれが楽器であることを露を宿せる草であることを/福士りか