平岡直子


存分に愉しみしゆゑ割れるのを待たずに捨てる緑のグラス

内藤明『薄明の窓』(砂子屋書房:2018年)


 

数年前にある片付けハウツー本を読んで物をたくさん捨てた。当時たしかかなりのベストセラーになり、著者が「TIME」誌の「最も影響力のある100人」にまで選ばれたやつ。その本の有用なところは、捨てることへの免罪符をあたえてくれるところだった。「Tシャツの合理的なたたみ方」や「家じゅうの大掃除をする場合の作業順序」など具体的なメソッドもいろいろ載っていたのだけど、そっちはあまり覚えていない。「やるべきこと」を教えられたい人なんていない。人に必要なのは免罪符なのだ。その本はいろいろなものを「捨てていい」と保証してくれた。なぜか家に溜まっていく謎のコード類や家電の説明書や保証書を「絶対に要りません、捨てましょう」と断言してくれたし、人にもらったものや思い入れのつよいものについては「それはもらった(買った)瞬間に役目を終えているから捨てて大丈夫」とこじつけてくれた。それらの言葉を免罪符に物を捨てまくったわたしは、自分がふだんどれだけ「捨ててはいけない」という強迫観念、罪悪感や、根拠のない「これは必要なものなのかもしれない」という思い込みに縛られているのかも思い知ったのだった。たいていの不要物は、それでも捨てない理由は100個くらいあるのに対して捨てる理由は「使ってない」のたったひとつしかないのだ。
掲出歌の作者はうらやましいことに生まれつきにしてその免罪符を持っているらしい(あるいはわたしと同じ片付け本を読んで啓蒙されたのかもしれない)。愉しみおえたら壊れてなくても捨てる。シンプルだけど勇気がいる。そしてこの歌を読んでいると「グラス」の役割、本来は飲食のために存在する実用的なアイテムだということを忘れそうになる。中身ではなく器が愉しまれているところも、割れることが恐れられるわけではなく待たれるものであるらしいところも、実用品としてはちょっと変だ。まるで飲み物の代わりに「存分の愉しみ」が充たされているようで、これ以上愉しんだら割れてしまうのかもしれない、とすら思わせる。芸術品や鑑賞の対象のように扱われるこのグラスは、最後まで「緑」という用途には関係のない審美的な側面を強調されつつ、完全な形のまま歌から退場する。

突つ立ちて葦吹く風を見てゐたり流され来たる朝のごとくに
透明な嘘に組み立てられていく夜の会議を見下ろす時計
背もたれに掛けられてあるマフラーを遠き記憶の中に見てをり

物の物理的な寿命と、自分のなかでのその物の寿命のあいだにはずれがある。そのずれのあいだで、自分のなかでの寿命のほうが全てである、と掲出歌は宣言する。物を心の範囲内でしかみないというのは物を捨てるのと同じくらいに勇気や免罪符がいるようなことだと思うのだけど、ここに挙げた数首も、物そのものというよりも心の鏡面にうつった物を描写しているようだと思う。物をとりまく環境が一首のなかで精神的な磁場へ変化させられる、その歪みがおもしろい。