奥の歯に歯間ブラシを当ててをり真顔といふをつひに持たざる

内藤明『薄明の窓』(砂子屋書房、2018年)

 


 

奥の歯に歯間ブラシを当てる。大きく口をあけたその表情を鏡で見て「へんな顔だな」と思い、「でもまあいつだってへんな顔だよな」というふうに思い、結果として「そもそも真顔と言えるような顔をしたことはないな」という思いに及んだ、ということなのだろう。ものごとや人生との対峙の仕方として「真顔」になったことがない、と自分を顧みる歌ととらえてもよいはずなのだけれども、そのような理屈の回路に落とし込んで理解するのが僕にはなんとなくためらわれる。

 

読み過ぎの細かいことかもしれないが、結句の「持たざる」という連体形は、余韻をのこすというだけでなく、初句「奥の歯に」にかかっていくような感じもある。上に「歯間ブラシを当てる→真顔を持たないことに気づく」という読みを示したけれど、初句にかかっていくのなら「真顔を持たないことはあらかじめわかっている→その口の奥に歯間ブラシを当てる」というのが現れて来て、そのあたりを重ねて読めば、一首における景と心情の中心が見えにくくなってくる。「奥の歯に歯間ブラシを当てる」ということが、真顔になったことがない、ということに付加される形で、なんらかの象徴性を帯びてくる。そして最終的に、口腔の洞、闇が際立って見えてくる。

 

『薄明の窓』は決して難解な歌集ではないのだけれども、ときどき(というかわりと頻繁に)この「奥の歯に」に通ずるようななにかが出てくる。一首そのものが素直なたたずまいをしていても、内容の細部や語法に独特の飛躍やねじれがあって、読んでいるとそれがどんどんたのしくなってくる。突飛だとか奇妙だとか言いたいのではない。一読して十分にわかるし、発想に共感したりしみじみしたりもするのだ。でもどこかがへんで、理屈に沿わないところもあって、しかもそれこそが一首のいちばんの手触りになっている、というような。

 

春の雪遠く降るらしケータイの着信ランプが点りて消えぬ
天に向きはくれん開くところ過ぎこゑを聞きたし人間の声
少しづつ形くづれてゆく雲かわれは見てをり眼(め)の冴ゆるまで
吉凶の間(かん)を生きゐて愉しかり灯火(ともしび)照らし自転車を漕ぐ
夕鶴の一羽飛び立つまぼろしを二十二階の窓に追ひゆく
五十代過ぎゆく早し明け方の腓返りに声をあげつつ

※( )内はルビ

 

たとえば三首目。雲の形が変わっていくのをじっと見る、という感じはよくわかる。でもダメ押しのように「眼の冴ゆるまで」とされると、輪郭の消えていく雲と見つめる眼の対比があまりにもシャープになされてしまって、しばらく読んでいると、「崩れる」と「冴える」という両極の間でどちらに焦点を当てればよいのかわからなくなってくる。一首が示す全体の景ははっきりしているのだけれども、言葉そのものがもたらすものによってこちらの体感がぐらぐらとする、という感じ。それから五首目。三句目でもう「まぼろし」とわかる。飛び立ったときにもうわかっている。けれどもそれをさらに「追ひゆく」。「二十二階」という具体が、「夕鶴」そのものよりもむしろ、幻でありながら「追ひゆく」ということの確かさを支えるようで、でも逆に「二十二階」という具体とその足元さえ幻なのだと示すようで、やはりふしぎな体感をもたらすように思う。

 

……とこのように書きながら、『薄明の窓』のほかの種類の歌についても言いたくなってくる。一冊や連作のテーマ、一首ごとの発想の仕方、一首における語句の構造などについて、論点をいくつも立てられる歌集だと思った。そのごく一部だが、もうすこし歌を挙げる。

 

加湿器のペットボトルの湯の音す春の原野を走れる夜汽車
胡桃ふたつ手に遊ばせてマスターは煙草の害を語りはじめぬ
日と時とわからずなりしといふ父は塩と醬油を所望するなり
湯に割りて呑む焼酎の香り良し芋ならば芋麦ならば麦
おもむろに包みをほどき一言を唱へてひらく弁当の蓋
歩道橋取り払はれて空青し学校閉ぢて半年の後

 


 

※6月13日追記

歌の引用に誤りがありました。申し訳ありません。訂正し、文章を一部変更いたしました。