平岡直子


蝿はどの教室も好きじゃないけれど階段を下りられないのだろう

柳谷あゆみ『ダマスカスへ行く―前・後・途中』(六花書林:2012年)


6/13追記
引用の間違いを訂正しました。6/11の更新時には<蝿はどの教室も好きじゃないけど階段を下りられないのだろう>と引用していたのですが、ただしくは掲出のとおり<蝿はどの教室も好きじゃないけれど階段を下りられないのだろう>です。申し訳ありません。文章も一部修正しています。


 

室内に迷いこんでくる羽虫、マンションの外廊下でバタバタしている蝉、アスファルトに進出してくるみみず……人工的な場所に乗りあげてしまった生き物をときどきみかけるけれど、だいたいみんな不本意そうだし、そういう場所でもがいてるとわりとはやめに死んでしまう。こっちとしてもそこにいてほしいわけじゃないので脱出できなくなっているのをみるたびにバカじゃないのかと瞬間的に腹が立つのだけれど、彼らの自然な通路に出口を見つけづらい通路を上書きして図らずも罠のようなものに変えてしまったのは人間の文明なので、向こうが圧倒的に被害者である。掲出歌に出てくる蠅にも同じような気の毒さがある。校舎に入り込んでしまって、教室と教室のあいだを移動はするけれど外に出ることができない。蠅は手近なところに着地はできても段階を踏んで下降することは難しいだろう。空を飛べる生物の限界である。蠅の悲しい運命がちょっとかわいく描かれる一首。
しかし、よく考えると階段を下りるという発想は完全に人間都合の出口のサジェストである。蠅目線を想像すると、もうちょっといろいろ出口の可能性はあるような気がする。通気口を通るとか、なにかに止まって運搬されるとか、てゆうか窓から出るとか。いっけん蠅にしみじみと心を寄せているようだけど、この歌にあるのは蠅の都合は無視した人間の、おそらく作者の心情の投影だと思う。だいたい蠅は教室のこと好きかもしれないし。ここに読みとれるのは、どの教室も好きじゃない、あるいは好きじゃなかった人間であり、校舎から脱出するには階段を下りるしかないという狭い固定観念に縛られた不自由な人間である。
この歌に印象的なのは、「好きじゃない」の対極にあるのが「好き」ではなさそうなところだ。この教室も、次の教室も、どの教室も好きじゃないとして、その背後に目指すべきたったひとつの「好きな場所」が想定されていない。その印象は蠅の生態のイメージや、擬人化のしづらさによるだろう。これが猫とかだったら話はちがったと思うけれど、蠅はぎりぎり「好きじゃない」という見立てまでは成立しても、それ以上の感情を仮託しづらい。蠅が仮に階段を下りて外に出られたとして、そこが蠅にとっての「好きな場所」だろうか。たぶんそういった味わいの余地もなく飛んでいくだろう。そこでは「好きじゃない」が消えるだけで、そこはもう「好きじゃない/好き」の基準の外側である。
「好き」は存在しない。「好きじゃない」と「『好きじゃない』がない」しかない。この歌の「好きじゃない」と「下りられない」の二つの「ない」は二重の抑圧であると同時に、居場所を定めてくれる縦軸と横軸のようなものだ。落ち着くわけではなく、そこから抜け出すわけでもなければ、ぶんぶん飛ぶしかないし、だからこそぶんぶん飛べるのだともいえる。たとえば「好き」をつよく抱ける作者による、たったひとつの憧れへ向かう直線的な飛行、あるいはその挫折には描きだせない種類のふらつきがこの歌にはある。悪夢的で、ユーモラスな浮遊感、これはひとつの現実だと思う。