カラオケでトイレに行き戻ればそこにあなたが歌うという空間がある

石井大成「Bloom Bloom Bloom」(「福岡歌会(仮)アンソロジー」vol.6、2018年)

 


 

「Bloom Bloom Bloom」は8首からなる。

 

咲くという動詞の素敵 じゃんけんでなにかとパーを出す人といて
今朝知ったばかりの言葉でごめんけど「キャラメリゼ」するように好きです
いちごオレをいちごオーレと呼ぶように日々を彩る何度でも、だよ

 

石井の歌の語彙や論理の、独特のポップさというか、キャッチ―さというか、そのあたりのことはこれからいくらでも語られていくのだろうと思う。「咲く」という語を「動詞」という枠組みで捉え直していくぶん異化した上で、しかも「素敵」と思い切りよく感受する。「咲く」だけでなく「素敵」という語彙そのもののイメージも修辞として扱う。それをじっくりと下の句の奥まで引き伸ばし、「パー」を咲いているところと見立て、つまり手を花のように見立て、結果的にその「パーを出す人」への賛歌を立ち上がらせる。「なにかと」のいかにも日常語的なニュアンスとそれによる息継ぎ。出す人「が」でなく出す人「と」である感じ、これはごく微かなニュアンスの差だが、つまり、その人がいるから「咲く」が素敵になったのだというより、そもそも「咲く」という語が素敵であることがこの場においてこそ生きるのだという感じ。そういったあたりはおそらく石井の歌の魅力の基本にある。

 

でも今日の一首はそのような歌とはちょっと違うタイプの歌。へんな歪みがところどころにあって、それ自体がこの「空間」の喩になっている気がする。

 

トイレから戻ってカラオケの部屋のドアをひらいたときの感じ。「あなた」と一緒に入室するときと、途中で抜けて改めて入り直すときとでは、カラオケがすでに流れている点でも、「あなた」がすでに歌を歌っているという点でも、部屋の感じは異なる。そもそも「あなた」が音楽にのせてマイクをとおして歌を歌うということ自体、日常的なことではない。どんなに頻繁に行っているとしても、やはりカラオケは特別な、非日常の空間だろう。部屋のあの照明の感じも日常にはほぼあり得ない。カラオケだからこその空間。トイレに行って戻る、というその一呼吸によって、幕間によって、その「空間」がいかにも異化されたものとして浮かび上がる。その感じは経験上とてもよくわかる。

 

ただ、僕という読者の側にあるそういった経験やイメージによる補完を待たなくても、一首に含まれるいくつかの〈歪み〉が、この人の感受したある種の違和感(不快なものとは限らない)を、確実に伝えてくる。

 

「トイレに行き戻れば」は「トイレから戻れば」としても十分に意味は伝わる。けれども「に行き」というふうに、動作がひとつぶん、言葉となって挿入される。すると一首内の他の箇所との対比で、ここだけ早回しになる感じがする。「行く」から「戻る」へと大急ぎで展開する。場面の推移のテンポが速い。そもそも定型から外れて調べが歪んでいるが、調べだけでなく、時空の面でもここだけ妙に歪みが生じているわけだ。「行って戻れば」でなく「行き戻れば」という言い方もなんだかぎこちない。早回ししているくせになめらかでない。定型も時空も歪んでいる。

 

それから「あなたが歌うという空間がある」。ここも「あなたが歌う空間がある」と言えば、出来事としては伝わるはずだし、拍数も「七・七」となり定型に収まる。でもそうなっていない。「という」が挿入される。調べが歪む。そしてやはり、歪んでいるのは調べだけではない。「あなたが歌う空間」を捉え直すのに、「という」と言って、さらにもう一段俯瞰して捉え直している感じ。この「空間」を、どこか意味深なものとして、言外に(この人にとっての)特別な意味合いを含むものとして、認識を挟んで一段階抽象化している感じ。現実からすこしだけ浮き上がる感じ。「行き戻れば」とは別のありようで、つまり、物理的な空間とは別の次元に移行させているという点において、ここにも歪みが生じている。定型も次元も歪んでいる。

 

ぶっきらぼうに見えて繊細な言葉の構成が、一首のところどころを歪ませる。その歪みがこの「空間」の喩として機能する。カラオケという場の具体を超えて、言葉の世界のなかで、この「空間」のありようをイメージさせる。読者の思考でなく体感に作用するものとしておそらくこの〈歪み〉はある。その体感をもって「空間」を眺める。

 

さてそれでは、この人にとっての「あなた」とはどのような存在なのか。そこは判断がむずかしい。かけがえのない人だとか、逆に、距離をとって冷めた目で見ているのだとか、容易には解釈を挟めない。連作中、上に挙げた「キャラメリゼ」と「いちごオレ」の歌に挟まれているのが今日の一首だから、そこを読みに行けば、少なくとも「あなた」への、ちょっとテンションの高い肯定感や特別視、「あなた」がいてくれるということへの安心感等は読めるのかもしれない。けれどもそれには慎重でありたい。そこに踏み込むとしたらそれは、音や語の構成を無視して「カラオケ」という一語においてのみ、読者の経験においてのみ空間を規定してしまうような、半自動的な反応になってしまう。その時点で、短歌であることの必然性は、かなりの部分なくなってしまう気がする。ここには、あなたが歌うその空間を、トイレから戻って直感的に、異化されたものとして感受した人物がいる、ただそれだけだ。そこに生じた何らかの違和感が、相手への恋心によるものなのか嫌悪感によるものなのかといった、そういう感情や気持ちのほうに流れていく一歩手前の、身体的な反応、というようなもの。

 

Bloom Bloom Bloom 蜂は飛びますあなたから放射を描いて広がる春に/石井大成