女子とかにほらって見せればモテるから小さな崖が体にほしい

伊舎堂仁『トントングラム』(書肆侃侃房:2014年)


 

冷蔵庫の中の冷え切った水をペットボトルのまま飲むと、舌の穴を水が抜けていく。まるで自分の中に川が出来たように、涼やかな水が私という体の下流へと流れ落ちていった。/金原ひとみ『蛇にピアス』

晩年のあなたに窓をとりつけて日が暮れるまで磨いていたい/笹井宏之『ひとさらい』

 

金原ひとみの小説のなかで主人公の身体に発生している「川」は比喩でありつつほとんど物理的なものである。舌をスプリットタン(=蛇みたいに二つに割れた舌先)に改造する過程でまず舌に開ける穴に飲料水が通っていく場面。続いて、笹井宏之の歌で「あなた」に取り付けられる「窓」は、上の「川」に比べるとより暗喩的ではあるけれど、読もうと思えば身体との対応がぎりぎり読める。たとえば、「目は心の窓」という慣用句があるように人体にはもともと窓的な器官はあるのだし、あるいは胸部を開閉式にして覗き窓をつける、というようなイメージも、SF的な発想を導入すればわりと簡単に思い浮かべることができる。
掲出歌の「小さな崖」という発想はそういった対応関係の外側にある。人の身体の、しかも外からみえる範囲で、崖を設置するのに適した場所はわたしにはどうしても思いつかない。この歌では最も具体的な部分である「小さな崖」が同時に最も抽象的だ。だから、人体と崖を右目と左目で別々にみているような気分にさせられる。それらはいわれてみればどこか重なるようで、しかし、どこか焦点を結ばない。映像的なイメージを経由せずに直接「小さな崖」という言葉が体に置かれようとしているようである。

 

①モテたい
②体に崖がほしい

 

歌のなかで動機として告白されている①を目くらましだと思う。①は「小さな崖がほしい」という表現を唐突にしないための助走として引かれた補助線のように感じられる。金原ひとみの小説でも、笹井宏之の歌でも、人体に加えられる改変は他人との関係性、それもある官能的なニュアンスを含んだ関係性を象徴しているし、その傾向はこの二作品に限らないだろう。人体改造は他人に自分の身体を所有されることと、他人の所有から自分の身体を奪い返すことのせめぎ合いの水際ともいえる場所だったはずだ。掲出歌は「身体の崖化」をそういったある種の官能的な文脈のなかに置くアリバイとして「モテ」というキーワードを用いつつ、しかし同時に「女子とか」の「とか」の含みや「ほらって」の台詞に感じられる含羞によってそのアリバイのたしかさを極限まではぐらかしつつ、とても微妙な位置から「崖がほしい」と発している。では、②になにか切実な動機やメッセージが宿っているのだろうか。

 

③「体に崖がほしい」と言いたい

 

伊舎堂仁の歌は「言いかた」でできている。言いかたによって、直接的に書かれているたとえば「モテたい」でもなくたとえば「崖がほしい」でもないなにかが立ち現れるという信念が感じられる。この歌は、詩的な異化を軽薄な物言いのなかに巻き込む「言いかた」を差しだしているのだと思う。そして、その後ろにあるのが「これ面白いでしょ?」であることは、「小さな崖」に象徴されている。
火曜サスペンス劇場で犯人は崖をバックに犯行を自白する。アクション映画でカーチェイスが崖にさしかかるとどちらかの車が落ちる。ジュラシック・パークではトレーラーが崖から宙づりになる。崖はスリリングな場所で、行き止まりで、断絶だ。そして、「小さな」崖という修飾は、崖のそのリアルな危なさは遠くへ押しやりながら、インスタントにそのスリルのエッセンスを求めているようであり、〈エンタメを着たい〉と言っているようである。思えば崖というのは多くの人にとってテレビ的なアイテムだし、「小さな」はよりそれを裏付けるだろう。「これ面白いでしょ?」をじかに身体に書き込むような伊舎堂の歌において、身体性は十全に自分のもの、自分の文体のためのものである。