黙ることは騙すことではないのだと短い自分の影踏みながら

山本夏子「スモックの袖」(「現代短歌」2018年7月号)

 


 

「スモックの袖」は24首からなる。

 

「だまる」と「だます」は一音しか違わないけれども意味にこれだけ差がある、というような、語の〈形〉と〈内容〉の差異に着目して一首のポエジーを発生させる歌(短歌にはわりとよくある型の歌)、というふうには読めなかった。黙ると騙すが漢字で表記されているし、同じ動詞とはいえ黙ると騙すではずいぶん内容が違うから、初句からなんの状況説明もなく「黙ることは騙すことではない」というふうに言われると、語の形の上での類似性より「黙ることは騙すことではない」ということの内容のほうが気になってくる。

 

沈黙とはつまり何も言葉を発しないということ。あるいは、何の行動も起こさないということ。だからその沈黙の内容について、怒り、喜び、悲しみ、といったような感情を感じ取るならば、あるいは、沈黙が何らかの行動の代替として機能してしまうなら、それは「感じ取る」「機能する」というより、沈黙される者、あるいは沈黙する者が、感情や行動をコンテクストから「汲み取る」ということを意味するのだと思う。

 

具体的にはわからないけれど、「黙る」ということが「騙す」ことになりうる場面があった(あるいは、これから黙ろうとしている)。黙ったのはこの人だろうか、それとも相手(相手は複数かもしれない)だろうか。「この沈黙は受け取り方によっては「騙す」ということになるのだ」とこの人はまずわかっている。中立的にただ「何も言わない」「何もしない」ということが、コンテクストによって「騙す」という内容をもってしまう。

 

でもこの人はあえて「そうではないのだ」と言っている。

 

影踏みについてここで詳細に説明することはしないけれど、自分の影を踏むというのは、それをしようとしても、ふつうは思いのままにはならないことだ(たとえば、右足で右脚の影を踏むことはできない、とか)。ここで言う「短い自分の影を踏む」というのは、思考が堂々巡りしているとか、あえて狭い範囲に限定して思考している、というふうに読むことができると思う。そして、影を踏むときふつう人はうつむいている。

 

「黙ってしまったけれど、それはべつに騙すことではないのだ」と、騙すことになる可能性も知りつつ、状況や感情のある部分には目をつむって、言い訳をしているのかもしれない。だから自分は黙っていてよいのだ、あるいは、だから自分は騙されたというわけではないのだ、というふうに、うつむいて視野を限定して短い自分の影にばかり注目をしている、ということなのかもしれない。「騙す」に通ずるコンテクストを構成しそこから汲み取りそうになる自分を抑え、「黙る」ということの中立性に寄りかかろうとしている。易しい言葉づかいで、韻律の構成もシンプルで、言葉遊びのような部分もわずかに見せながら、でもかなりの苦しさを内包している歌のように思う。コンテクストによって何かを汲み取るということより、コンテクストを作り上げずそこから何かを汲み取らない、と決めて目をつむることのほうが苦痛を伴うことがある。

 

……と読みながら、この読み方が妥当なのかどうか僕には自信がない。黙ると騙すをつなぐ状況が語られないから、読者はまさにそのコンテクストを自らの経験に照らして探し出そうとするだろう。黙ることが騙すことになる、ということに心当たりのある僕がこれを読むとき、客観的に読むために下の句をなんとか手がかりにしようとはしても、どうしても、コンテクストを歌の外側に恣意的に仮想してしまう。そして「苦しい」などと言う。

 

黙ると騙すをつなぐコンテクストをたちまちに作り上げてしまった読者としての自分と、その「コンテクスト」ということそのものをまさに扱っているかのようなこの一首に、長く立ち止まった。

 

「スモックの袖」からさらにいくつか引く。

 

パプリカを食べれば口を腫らす子が遊具の馬に草あげている
その声も息と一緒に吹き込んでしゃぼんだま子は遠くへ飛ばす
歩いたら汗ばむくらいがちょうどいい完全遮光の傘をひらいて
色えんぴつの芯を何度も折りながら娘が描くたまご人間
ふと人に話してしまう夢があるはちみつ色に照る春の月

 

アレルギーなのだろうか、パプリカを食べられないということ(この馬ももちろん、遊具だから、草を食べない。食べられない)。遠くまで飛ぶけれどそれはしゃぼんだまのあの小さな球のなかにあるということ。「完全遮光」ということ。「何度も折りながら」であるということ。話して「しまう」、つまり、本来なら話す必要がない、話さないほうがよい、とも思っていそうなところ。山本夏子の歌は……と一般化するつもりはまるでないし、やはり読み過ぎの感はあるのだが、山本の歌を読んでいると、そのやさしくやわらかなたたずまい、内容に反して、その意識の向く先や語彙に「制限」の類いを感じてしまうことがある。禁止とか強迫性とか、そういった言葉でそれを指すのはもちろん大げさだろうとは思うのだけれど。

 

短い自分の影踏みながら、ということの息苦しさがどうにも頭を離れない。