平岡 直子


喫茶より夏を見やれば木の札は「準備中」とふ面をむけをり

光森裕樹『鈴を産むひばり』(港の人:2010年)


 

もちろん喫茶店は夏の外側にあり、夏は喫茶店の外側にある。喫茶店はそういう場所だ。窓や扉のガラスから外の景色のようなものはみえるし、それは絶えず動いてはいるけれど、それを眺めるのは水槽のなかを眺めるようなことで、その証拠に外を歩く人たちもまた水槽のなかを眺めるような虚ろな視線をこちら側に流してくる。その水槽すら合成されたデジタル画面の可能性だってある。わたしとあの人たちのあいだには数億光年の差があるかもしれないのだ。
二つの空間のあいだの扉、そこに門番のようにぶらさがる木の札が「準備中」だと告げる。扉の外のぎらつきにはたしかにすでに夏が存在しているように思えたのに、なんと夏はまだ準備中だったのだ。では、あのいかにも暑そうな、ほの暗い店内と対照的な外のまぶしさはなんだろう。夏のゲネプロでも行われているのだろうか。それともあの札はわたしの心がみせた錯覚だろうか。夏がはじまっていたとしても、まだ夏を迎え撃つ準備はできていないわたしの心の文字が映写されているのだろうか。まだ夏のための席に就いていない。できるなら就かずに済ませたい。七月。八月。九月。すべてが過ぎた頃にあの札をそっと横にどけて初秋の涼しさのなかへ出ていきたい。
こちら側に「準備中」がみえているということは、外に向いているのは「営業中」のはずだ。それに気づいてわたしはひそかに笑ってしまう。あの札と共犯者になったかのような気持ち。向こうで夏は営業中。扉の外のすべての皆さんにとって夏はまさに営業中。だけど、彼らのほとんどはそのサインに気づけないだろうし、営業中であることに気づいてあの扉を開けてみた者は漏れなくこちら側の「準備中」の世界に裏返ってしまう。この世のたいていのものは営業中であることをしらない人に向けてのみ営業中なのだ。
しばらくしずかに笑ったあとで、それから、やっと少し不安な気持ちになる。「準備中」の裏が「営業中」だということをわたしは経験則で知っているつもりだけど、たまたま今まで出会ったあの手の札のすべてがそうだったからと言って、次のあの札の裏側もそうだとは限らない。準備中の裏もまた準備中かもしれないし、なにも書かれていないのかもしれないし、「出入り禁止」とかかもしれない。あの札はいずれ簡単にひっくり返るだろうけれど、それは「準備完了」のほうに転ぶとは言いきれないのだ。外の光がぐっと遠くなる。いよいよ数億光年の距離を感じる。ここは夏に対してエアポケットのような場所だ。わたしは、出たくなったときにこのエアポケットを出られるのだろうか。