屋良健一郎「春、さかしまに」(「現代短歌」2018年7月号)
「春、さかしまに」は24首からなる。
この歌が示すのはつまり、それがいかなる夜なのか、というただその一点。「はなびら」と「水紋」のイメージが鮮やかで、それだけでもたいへんにうつくしいもののように感じるし、納得させられてしまいそうになるのだけれども、でもこの歌の言わんとする「夜」、どんなものなのか、実は像を結びにくい。
はなびらによって生じた水紋のいちばん外側、つまり幾重かになってひろがった円のいちばん外側。いちばん外側だから円のその曲線がかなり崩れていて、でもそれが円であることはまだ保たれている。湿った感じの、目に見えるあらゆるものの輪郭が淡く見えるような夜、ということだろうか。あるいは、夜のどこか奥深い一点から放たれたものをしずかに感じ取っている(いったいどういう「もの」なのか具体的には説明できないけれど)、というようなことだろうか。「水紋のいちばん外側」と「夜」を直喩(すなわち「A=B」という関係)によって結び付けられても、その類似性はなかなか見い出しにくい。「夜」という時間・空間の質感を、読者として、その「外側」ということを手がかりに〈体感〉によってとらえようとしても、あるいは、「水紋の外側というのは〇〇だから」といって〈理屈〉によってとらえようとしても、どうにもうまくいかない。
けれどもその「うまくいかなさ」が伝えてくるものがあるなあ、と思う。まず、上に〈体感〉によっても〈理屈〉によってもとらえられない、と言ったが、それそのものがどんなものかとらえられなくはあるけれど、「~外側のような夜」としか言いようのない質感を、〈体感〉レベルで感じ取ったのだろうな、ということだけは想像がつく。それから、これはこの歌を読んで最初に感じたことなのだが、初句から冗長なほどに言葉をかさねているところに、この「夜」がどのようなものであったかをなんとか表現し尽くそうという意思を僕は感じてしまう。「いちばんそとが/わのようなよる」という音の割れ方も、その「なんとか説明を」という感じのあらわれのように、僕には感じられた。そこまでして、その「夜」の感じを正確に表そうとしている、ということ。「外側のような夜」という形容に多少無理があったとしても、そのように表現しなければ伝わらないなにかがある、というような。
それで、付け加えて思うのは、「はなびら」「水紋」ということだけで半分自動的に「なんだかよい雰囲気だな」などと読んでしまう読者としての自分のこと。どれだけ気を付けているつもりでも、そうやって、それぞれの名詞のイメージのみを先立てて読むということを自分がしてしまう可能性がある。大げさなようだけれども、「読む」ということを慎重にさせてくれる一首として、気になった歌だった。
屋良の大学教員としての歌や沖縄をテーマにした歌がこの「春、さかしまに」にも含まれているのだが、ここではそれ以外から、もうすこしだけ引いておく。
浮橋のなからにわれとすれ違う変なスキップしているわれと
さかしまに雲客たちが落ちてくる薄氷の天井が砕けて
シーソーが夕陽を乗せて沈みゆき移動パン屋の音楽ひびく
並行世界の誰かがくしゃみするハンドソープのポンプを押せば