七月の日照(ひでり)の庭にちひさなるとかげ光りて見えかくりする

岡本かの子『浴身』(短歌新聞社:1999年)(初版は越山堂:1925年)
※()内はルビ
※「とかげ」に傍点あり


 

岡本かの子の名歌は行間にあるというのが歌集を読んでいると感じることである。岡本かの子といえば桜だけを題材にしたものすごい勢いの連作、「桜百首」と呼ばれる(実際には百首以上の)連作が有名だけれど、この連作にかぎらずいったん目をつけたものはとにかくガン見しながら執拗に詠むタイプ。一つのモチーフはしつこく連作中で繰り返されるし、あるフレーズやある上句が何首もつづけて使われることも頻繁にある。その執念にはかなり打たれるのだけど、一首にただしくピントが合うことはそれほど多くないようにわたしにはみえる。ある歌は助走にすぎず、次の瞬間のある歌は高く飛びすぎている。しかし、助走の歌、飛びすぎの歌、と振り回されながら読んでいると、それぞれの歌の点と点をむすぶ線が体感として生まれてきて、その線上のどこかでただしくピントが合った歌もたしかに経験したかのような錯覚が起きてくるのだ。行間の幻の一首がだんだんみえてくる。だから「この歌とこの歌のあいだの行間を掲出したい」というような気持ちに駆られるのだけど、まさか引用歌を空白にした状態で一首評をはじめるわけにもいかない。そのなかで、掲出歌は「みえない行間の歌」にすこし近いかもしれない。
この歌は「とかげ」というタイトルの連作の巻頭歌で、お察しのとおり連作にはこの後しつこくとかげが登場し、さまざまな角度から凝視され、作者と重ねられ、対比され、突き放され、とかげに乗ったジェットコースターみたいなことになる上に、途中から尾が切られるようにとかげだけ勢いよく放り出されたりするのだけど、掲出歌はまずは控えめに口火が切られたという感じ。連作の主人公(途中退場するにせよ)が宣言され、ロケーションや季節を含む舞台設定の説明という役割もある。そういう意味ではこの歌は分類するなら助走の歌だけど、一首の内圧はすでに高い。
七月というあかるい季節に「日照」と「光りて」が重ねられ、ちょっと眩しすぎる光景。とかげにせよなんにせよ動くものの輪郭をきちんととらえるにはたぶん光がつよすぎるし、しかも一首には水気が少ない印象もあり、なんだか無機物や電気信号が動いているような質感だけど、それでも動くものが「とかげ」と名指しされるのは、ちらりとでも姿がみえるからだけではなく隠れるからだと思う。みえたり隠れたりすることによって描かれる生き物的な動線や動きのリズム、そういったものに補完されてはじめて眩しい庭のとかげはとかげにみえるだろう。ここに発見されているのはいわば命の点滅だ。点滅するから命にみえる。そして、行間を含めて連作、歌集を経験するというのも、点滅に連続性を見出す作業なのだと思う。

 

人間基準でいうととうぜん小さいとかげにわざわざ添えられた「ちひさなる」は、庭のサイズ感とのコントラストを生んでいる。庭は果てしなく広く、そのなかでとかげはとても小さい。この連作は後半にかけて自らの病、子どもの病が主題になり、病によって家に引きこもりがちになるひと夏が描かれる。掲出歌があかるく示すこの庭の心理的な広さ、庭が全世界であるかのような感覚は、連作の後方にじわじわと効いてくるものでもある。

 

秋なかば青黒く厚き朝顔の葉を見いりつつ薬をふくむ
流るる血ながしつくして厨辺(くりやべ)に死魚ひかるなり昼の静かさ
ひるすぎに風たち初(そ)めつざわめける街なかの黙(もだ)は牛の黙のみ

ほかに、どちらかというとテンションを抑えぎみの、命や命が反転したものの存在感が「見えかくり」するこういった歌にも惹かれる。逆にテンションがマックスの、たとえば〈かがやける陽よ咲く花よ夫よ子よわが棲まむ世は此処にかぎれり〉のような歌にはやっぱりちょっと引いてしまうんだけど、上に挙げたようなどことなく秀歌然とした歌たちは、歌集中でぎらぎらした歌に照らされているから映えるんだよなぁということも思う。