染野 太朗


食べることのできない人に贈るため花はあるのか初めておもう

吉川宏志「コリアタウン」(「歌壇」2018年7月号)

 


 

「コリアタウン」20首の最後に、今日の一首を含む3首が次のように置かれている。

 

桐咲けり 検査結果を知らせくる母のメールに句読点なく
食べることのできない人に贈るため花はあるのか初めておもう
病床に絵を描く人のパステルに撫でられおらむ花の曲線

 

この三首、対象のどこに注目するか、どこに視点を置くか、ということがいずれも余情の中心になっている。ものの見方、認識、ということをつよく感じる。一首目は「句読点がない」というところへの注目。一見すると、「桐咲けり」と二句目以下をいかに結び付けるか(あるいは結び付けないか)というところにこそいちばんの詩情がありそうだが、モノゴトの手触りとしてリアルに感じられ、また状況や心情の手がかりにしやすいのはきっとこの「句読点なく」のほうだ。三首目は、絵を描くようすを「花の曲線を撫でる」というふうにとらえたところ。これは「花が絵に描かれる」というのを「花の(輪郭、あるいは質感としての)曲線が撫でられる」というふうにとらえ直してそこに詩情を見ている歌、と言えそうなのだけれども、僕がまず感じたのはそういうことではなかった。この「描く人」や「絵」や「花」そのものよりも、「描く人」(ここでは「母」を指しているのかもそれない)が花を見つめるその〈視線〉のほうが印象的だった。画用紙と花はもちろん離れたところにあるはずだが、このように描かれると、「パステル」が直接に花をなぞっているような感じが出てくる。しかし実際にはそれはありえない。だから僕はそのありえなさを解消するようにして、花の輪郭をしっかりと見て、つまり視線でなぞって、それを紙に写し取っていくようすをまず想像したのだと思う。絵を描きながら花そのものを撫でることができるのは、実際には、描く人の〈視線〉だけだ。じっと見つめる視線がまずあって、それによって「花の曲線」が浮かび上がる。この歌は「花」をえがいた歌にちがいないのだが(撫でる、というのも、視線云々ではなくて、紙に描かれた花の輪郭が何度もパステルでなぞられている、というだけのことなのかもしれないが)、その「花」を印象的にしているのは作中主体(作中主体、という言い方が個人的にどうにも好きではない、というか、ピンとこなくなっているので、なるべく避けているのだけれども、便宜上使います。よろしくない)ではなくて、その作中主体によってとらえ直された「描く人」と「花」との〈関係〉そのもの、という感じがある。

 

今日の一首。眼目はやはり「初めておもう」。病気の人に花を贈るということの意味をふかく考えたことはなかったけれども、あるいは、別の意味でとらえていたけれども、今回まさに、四句目までの内容を「初めておも」った、ということだろう。連作「コリアタウン」には、

 

大阪・鶴橋

豚肉にぬむぬむと刃は吸われゆくコリアタウンの昼をあゆめり
つまようじ赤く染まりて捨てられつ山芋もある試食のキムチ
銀器には蓮根キムチの盛られおり食べてきなさいよここしかあらへん
日本語に注文を聞き厨房にチゲを伝える声は鋭き
ゆうぐれに牛の白腸(しろわた)焼いており「旅」は「食べる」につながる言葉

※( )内はルビ。「大阪・鶴橋」は「豚肉に~」の歌の詞書。

 

といった食にまつわる歌もあるから、食をいつもより意識した自分と病床の人との対比で、このように「初めておも」ったのかもしれない。あるいは、この「食べることのできない人」が「母」だとしたら(あるいはそうではなくても)、相手が特別な存在だからこそ、「人にとって大切な「食べる」ということが十分にできない」ということにふかく意識が向かって、そのように思ったのかもしれない。

 

花は、「食べることのできない人」に贈るためだけのものではもちろんない。けれども、作中主体の今の状況がそのように思わせた。あえて「初めて」と言っているのだから、それが「今の状況」による相対的・限定的な思いなのだと、この作中主体も気づいている。けれどもその「初めて」であるということをもって「本来なら、食べる、ということを相手に贈りたいのだ」という心情まであるいは読み取れる。上に挙げた「「旅」は「食べる」につながる言葉」を踏まえるならば、旅をすることができない人に贈るのが花なのだ、ということでもあるのかもしれない。

 

それが「初めて」であるという事実が、「食べることのできない人」に対するみずからの思いを照らす。

 

景の描写等ではなく、思ったことのみを述べた一首のつくりはシンプルで、この「初めておもう」という措辞も、読み飛ばしてしまいそうな感じでやさしく据えられているけれど、でもやはりこの「初めておもう」こそが一首の背後の状況や感情を説明しているし、余情を支えている。

 

「コリアタウン」には、

 

和平ちかづくニュースは信じられるのか赤き躑躅が直角に咲く
兵役にゆくBIGBANG 店にならぶ団扇のなかに皆ほほえみぬ
戦争を終わらせたくない人がいる あるいはわが国の宰相も

 

といった歌も並ぶ。吉川の歌を語る際にはもはやこういった「社会詠」「時事詠」をこそ中心に読まなければいけないのではないか、などとも思うのだけれども、今日はここまでとします。