平岡 直子


夢でみた場所が出てきてこの先は崖と書かれていて引き返す

佐伯紺「地続き」(「羽根と根」六号:2017年)


 

一般的に夢の「中」とはいうけれど、覚醒の「外」とはいわないな、ということを考えた。夢はつねになにかの内側にあるイメージなのだ。それは、夢とは脳で起きていること、頭の「中」にあるもので、逆に覚醒してるときに経験することは身体の外側にある、という区別によるものだろうけれど、その区別に根拠はあるだろうか。覚醒しているときの経験も脳によって認識されているものだという点では夢と同等に頭の中にあるわけだし、それよりも夢にみるあの無秩序さをなにかの「外」と呼びたいような気もする。夢は「中」なのだ、と、言葉によって囲い込むことで夢に現実を侵食させないための便宜上の用法のようにも思える。
掲出歌にそういうことを考えたのは、夢/覚醒の境界と地形の断絶が奇妙にずれているからである。暗示的に一首にあらわれる「崖」は夢を囲い込んでいるようにも感じられるけれど、この歌の夢の輪郭はとても曖昧なものだ。
掲出歌は一読、日常の小さな違和感を題材にした歌のようにみえる。夢でみたことのある場所が現実にあらわれる。デジャヴュ的な錯覚、予知夢など、いくつかの読みが思い浮かぶ。もともと現実に親しい場所、よく目にする場所をそういえばついに夢にもみたな、という内容のやや転倒を含んだ省略の可能性もあるだろうか。しかし、おかしいのは「場所が出てきて」という言いかたである。自ら移動している場合に選ばれる言いかたではなく、受動的になにかの上映を眺めているときのよう。「この先は崖」などという標示もよくよく考えると日常生活のなかでみかけない。なんだかまだ夢のつづきにいるようで、そこは「夢でみた場所」ではなく「現に夢でみている場所」なのではないかという疑問が生まれる。その疑問は夢と覚醒の境界線にかなり幅を持たせるし、崖はその満ち引きに洗われる波打ち際の石のようである。そこは海の中かもしれないし、海の外かもしれないし、どちらでもなく、砂の上と呼ぶべき場所なのかもしれない。夢のほうが覚醒の外側に広がっているようにもみえる角度は保たれつづける。
ものごとの素晴らしさをあらわす「夢のような〇〇」という慣用句があるけれど、掲出歌の「夢でみた場所」は「夢のような場所」のことではない。殺風景なあかるさ、一寸先は崖、落ちる予感、閉じこめられることへのかすかな怖れ、どちらが外側かわからない夢と覚醒の入れ子構造、不確かなものばかりを湛えて安らかな、かつ不安な場所である。すでに失ってきたものへの喪失感、いまあるものもやすやすと失うであろう予感といった不安は、佐伯紺の、あるいは彼女たちの、あるいはわたしたちのテーマを大きく占めるものだけれど、佐伯の場合、不安の端でつくられる歌、感情と現実とのつなぎめとして生活の具体的なディテールが機能している種類の歌よりも、不安の中央でつくられる歌、それが不安であることすら本人にもよくわかっていないかのようなぼんやりした歌のほうに輝きが宿るように思う。
掲出歌で「崖」は予告されるけれど、崖の先の景色をみようというチャレンジはなく、素直にあっさり引き返される。その場所から出たくないかのように。ここが夢なのか覚醒なのか、いったいどこの中央なのか、ほんとうは決してたしかめたくないのだ。

 

真上から虹を眺める想像の中で何度もいなくなるきみ/佐伯紺