火星見えると地学部が全校放送し夜市のやうな屋上である

梶原さい子『ざらめ』(青磁社、2006年)
※引用は現代短歌文庫『梶原さい子歌集』(砂子屋書房、2018年)

 


 

新海誠監督の映画『君の名は。』の映像の感じを思い出してしまうというのもわれながらかなり安易だなと思うのだが、あの映画のあざやかな色彩や光、地上をとらえるときの俯瞰のありようや構図等は、今日の一首にはやっぱり似合うような気がする。それから、映画とは必ずしもかかわらないけれど、青春性、ということも思う。「火星」「地学部」「全校放送」というモノ・コトとそれがみちびいてくる雰囲気、その放送がきっかけでふいに大きなイベントとなってあらわれた火星観測。生徒たちであふれる「屋上」。なにか大きな詩的飛躍や異化の類いでまとめられてしまうのではなく、なにかに対する批評へ向かうこともなく、さまざまな屋台が並んでたくさんの人があつまる「夜市」にたとえられて、生徒たち(もちろん教員たちもまじっているのだろう)の夜のにぎわいが抽出される。このにぎわいは文化祭などでも十分にありうる、学校現場として特殊なものではないはず。ただそのイベントの中心に「火星」があるということや、学校における夜(夕方)の場面であるということが、日常を離れない〈非日常性〉を演出してくれる。

 

初句の頭でいきなり提示される「火星」、「全校放送」というだけでその放送の及ぶ校舎の全体や校庭まで見えてくる感じ、そしてにぎわいが「屋上」にあるというところが、俯瞰の視点・広い視点を読者に差し出してくれているように思う。また、屋上「である」、と事実のみを(客観的に)伝えるような言い方には、あるいは語り手を〈神の視点〉のそれとして読者に意識させる効果があるかもしれない。ちょっととぼけたような味わいもある。この人は生徒たちとともに屋上にいるのだろうけれど、最終的には、生徒たちでにぎわう屋上を見下ろし、さらに、遠く火星のかがやく夜空(夕空)をも配した俯瞰の映像を(でもそれはたったひとつのカメラでなく複数のカメラから同時にとらえた「俯瞰の映像」だろう。身体的視覚ではちょっとありえないけれど。その理由は初句からの場面・空間・映像の推移や一首をながれる時間のありようにあるはずだが、そしてその一部をたぶんすでに僕は説明し始めているのだが、ややこしくなるので触れない)、この歌から思い浮かべることができると思う。

 

こまかい話になるが、「地学部が」というふうに生徒をその属性で換喩的に指して言うところには、いかにも学校現場という感じがある。

 

最初に「青春性」ということを言ったけれども、地学部がそうやって全校放送をしたりそれで盛り上がって生徒がどんどん屋上に出て来たり、この感じはやはりいかにも学校だなと思うし、ノスタルジーをさえ誘うよなあと思う。それが散文的な語の構成とフラットな口調のもとで提示されているのも、この一首のそういった雰囲気を邪魔しない。

 

反りかへるバナナの皮を剝くやうに列島に春なめらかに来る
鍋蓋にびつしりならぶ水滴の行き場のなさにけふも暮れたり
コッヘルと言ふとき喉の奥底で爆ぜたる遠きいくつもの空
答案を束ぬるゴムの弾性にかすかに打たる冬の教室
桃を剝く母のひぢまで水蜜はつたひぬ稚(わか)き家族でありき/梶原さい子

※( )内はルビ