水銀の鈍きひかりに夏がゆきしまわれてゆく女のかかと

広坂早苗『未明の窓』(六花書林:2015年)


 

残暑の表面張力を感じる。有毒、ノスタルジー、不思議な質感、体温計、魚、水銀からはいろいろな連想が働くけれど、「鈍きひかり」と見た目を言われることでまずは表面の張りを思い浮かべ、去り際まで暑さが漲りとつぜん終わる夏のあの感じを思い出す。水銀の温度計への連想は、季節のうつりかわりによる気温の変化の暗示としても働いているだろう。
季節が変わると靴が変わる。素足にサンダル、というような装いは夏が終わると街でみかけなくなり、素足はパンプスやブーツ、靴下やストッキングのなかに隠れていく。そのことをいっている下句は、水銀との取り合わせによってまずかかとの丸みが強調されて、なるほど足にも表面張力を感じる部分があった、という素朴な驚きを感じさせるとともに、天地がひっくり返ったような不安もやや抱かせる。かかとの丸みは普通に足を眺める角度からは拡大されない。その不安は衣替えとともにかかとだけが取り外されて箱にしまわれているようなこの歌のちょっとした不気味さに通じる。実際には箱にしまわれているのはたぶんサンダルだけど、サンダルがしまわれるとき足もまたしまわれるのだ、という不思議な事実が引き出されている。
「夏がゆき」というかすかな擬人化は「夏」と「女」をいっしゅん重ならせるけれど、その印象はすぐに消え、女だけが帰ってくる。だけど、「しまわれてゆく」と受動態で書かれる下句は、女自身がかかとをしまっているようには読みづらい。ここの動作の主体の不在は、上句で退場した夏の不在だと思う。たとえば次の季節が、たとえば「秋」や「寒さ」がかかとをしまうわけではなく、「夏がいないこと」がかかとをしまう。動作の主体が空洞であることによって去ったものの存在感の大きさがあらわれる。

 

ところで、金属×足といえばこういう歌がある。

君は今小さき水たまりをまたぎしかわが磨く匙のふと暗みたり/河野裕子

「君」と離れていても、自分が手にするものが「君」の動向を映す水晶玉になる、ように思いこんでいる危険な熱さのある相聞歌だけれど、掲出歌の水銀とこの歌の匙にはただ金属というだけでなく、丸みや、ものが映るようではっきりとは映らない銀色の質感など共通点が多い。そして、歌集中にはこんな歌も。

子らの脚(あし)気ままに伸びる夏の日は大き薬罐を買いにゆくなり/広坂早苗

人には種としての進化の過程と赤ちゃんからの成長の過程で二重に二足歩行を強いられた歴史があり、「二本の足だけで立っている」ことへの漠然とした違和感がこうして歪んでぼんやりとした鏡面と足を取り合わせさせるのかもしれない。というか、足がクリアに鏡写しになると計四本になってしまうし、それはおそらくはっきり思い出してはいけない光景なのだ。そして、掲出歌を含めいずれの歌からも感じるのは、それぞれの金属の熱伝導性が意識されていることである。これらの歌には地面との接点であり、熱を受けとるポイントである足への潜在的な同情がある。その同情が、掲出歌の夏を終えたかかとを手厚くしまわせているようにも感じるのだった。

 

夏はやく終わらないかな。