足裏の小さき白きが駆け抜ける土色のつち踏むわが心に

なみの亜子『「ロフ」と言うとき』(砂子屋書房、2017年)

 


 

裸足だろうか、土を踏んだときの、例えばよろこびが表現されている。というふうに言うだけでもこの歌を読んだことになるのかもしれないが、しかしこの歌の詩的な構造はとても複雑だ。

 

そもそも「よろこび」なのかどうか定かではない。「小さき白き」という足裏を持つ者だからこれはおそらく幼い子ども。その子どもが柔らかい足裏でかろやかに心を駆け抜ける感じ。そのはずむような感じを指して僕はそれを「よろこび」と呼んだ。けれども、身体の感覚を伴った、しかも比喩によってこのように表されている以上、それを「よろこび」というふうに呼んでよいのかどうか最終的にはわからない。

 

仮に「よろこび」とする。そのよろこびを、小さくて白い足裏でだれかが心を駆け抜けるさま、として描く。実際に土を踏んでいる足裏の感触が、そのまま心に移行され、しかしその感触をもたらしているのは「心」のなかではもはや自分の足ではなく、別の、おそらく幼い子どもの足。「心」に移行した時点でその感触は心情の喩となる。

 

「心情」と「足裏の身体的な感覚」とを、読者としてしっかりと区別して上のように整理すれば、「よろこびが表現されている」などと心情を中心にしても読めるけれど、心情と身体とがそれぞれに別の「足」を提示しながら描かれ、その両者が関わり合いながら、けれどもやはり一方の足はあくまで心情の喩であり、もう一方は身体の感覚を導く、だから、この一首を一読したときは、心情と身体の感覚が腑分けできず、それらが混ざり合っているようになってしまって、ただ何か土のやわらかさのようなものだけが読者として漠然と感受され、ふしぎな感覚に陥った。「白」と対比されるのが「黒」でなく「土色」であるという点も、安易な対比からは逃れていて、イメージの輪郭を単純なものにはしない。

 

こまかいところに分け入ります。

 

わが心「を」でなくわが心「に」となっている。となると、土を踏む私の心のありよう「によって」足裏の小さき白きが駆け抜ける、というように読めなくもない。というかその読み方こそが正しいのかもしれない。だとしたら子どもが駆け抜けているのは心以外の場所という可能性もある。また、「に」の機能上、「踏む」が終止形でそこで切れて、心が土を踏んでいる、というふうにも読めてしまって、そうなってくるともはやここでは、実際の自分の足が土を踏んでいるのかどうかも定かではなくなる。何かくすんだ色を踏んでいるということで、暗い気持ちの喩なのかもしれない。よろこびなどどこにもないのかもしれない。「駆け抜ける」が連体形で、子どもが駆け抜ける(ような)土を自分は心で踏むのだ、という解釈もできなくはない。また、この「足裏」はかつての自分の足裏、すなわち幼年時代を思い出してのものといったような可能性もあり、するとこの一首の時間は現在だけでなく過去をも包み込む。

 

いや、そもそもこの「足裏の小さき白き」は動物のものなのかもしれない。いや、子どもでも動物でもなく、観念上の「足裏」なのかも。

 

……とややこしくてもここまで言葉に即して読んだのは、『「ロフ」と言うとき』の歌に読み取れる身体や身体の感覚が、ただ単に「身体」「身体の感覚」と言うにはちょっとためらわれるくらい、認識や心のほうと混じり合っているような場合があって、そのあたりの理由を探ってみたかったから。身体そのものの感覚に預けてそれを表現している歌、というより、認識・思考の強い力を保ったまま身体を意識しているからなんだか複雑な身体の感覚が表出している、というような印象の歌がこの歌集にはいくつか見られる。この歌集全体に抱いた僕の印象のひとつは「身体感覚がゆたかにあらわれているなあ」という単純なものなのだけれど、そうとだけ言うのは危ない、というか。歌集のごく冒頭部分から、もうすこし歌を読んでみる。

 

山のみどりようやく本気になりくれば見つめる体位を開脚とせむ
朝露に膝下までをひたしつつ深くなりたる草を刈りゆく
民族のごときつゆくさひと花を引けば根は根を呼びてふんばる

 

一首目、勢いを増した「山のみどり」と呼応する「開脚」はいかにも大らかで、その脚の感覚を読者にも追体験させうる。けれども、「本気」になり「くれば」、というふうに、「本気」をまず認識し、そこに「くれば」と条件をつけてから「開脚とせむ」とするそのありようには、やはり認識・思考の力をまず感じてしまう。二首目、膝下「までを」という措辞がとても几帳面な感じ。「それほどに草が成長して深いのだ」ということよりも、自分の身体のどこまでが草に濡れているのかをしっかりと測っていることのほうが目立つ気がする。「までを」の特に「を」まできっちりと言うあたりにそれが見えてきてしまう。身体の感覚ももちろん最終的には伝わってくるのだけれど、それを伝える助辞の構成は、認識のほうを強く意識させるように思う。三首目、「ふんばる」という語は、「つゆくさ」のようすを示したものでありながら、人間の動作由来の語であるがゆえに、読み手の身体の感覚を喚起しうる。けれども「民族のごとき」という喩はまさに認識や思考のあらわれだし、「根は根を呼びて」も、「つゆくさ」の描写ではあるけれども、「民族」が提示されたあとではそれにかかわる隠喩としても機能しうるという点において、認識・思考を強く意識させる。

 

念のために改めて言っておくが、僕は読者としてこの歌集に自分の身体の感覚を大いに刺激されたし、それは認識・思考の強さと関わり合いながらのものばかりではない。僕の読み方ひとつでブレうるものだとも思う。にしてもちょっと気になる歌があったわけです。

 

認識・思考が強いかどうかは別にして、ぜひ身体の感覚を意識しながら読みたい歌を、最後にすこしだけ挙げておく。人間の身体が詠み込まれているとは限らない。やはり歌集の頭のほうから。『「ロフ」と言うとき』にはほかにも語るべき観点が多くあると思うのだが、それはまた別の機会に。

 

なんとなく肩のすぼまる秋の山に、おい秋山来たぜ、と声かく
刈り終えて犬とわたしの寝転がる草ぶとんのなか青き花あり
落ちていた小さな木の実小ささを思いだすときふるえるまぶた
風雪にあらがわぬまま風雪の行いを全存在にしめして倒木
肺に手をあてて眠りぬ息をして息をして夜をふかめながらに
渇水のただごとでなき川底に筍の皮貼りつきており/なみの亜子