イソジンの一滴がうむ夕闇の喉にいつかの迷子のわたし

増田静『ぴりんぱらん』(BookPark:2003年)


 

イソジン、夕闇、迷子、どれも幼少期に感じる種類の心細さへのリンクになりうるという点で一首のモチーフには統一感があり、それらを拾いあつめていくことでこの歌のノスタルジックな湿り気を感じとるのは難しくないだろう。しかし、それ以上に正確な情景を読みとろうとすると話はとたんに難しくなる。問題の核は一首の中央にある「夕闇の喉」で、ここを夕闇と喉のどちらを喩として取るかで読み解き方は大きく変わる。
「夕闇」のほうが喩であれば、これはうがいの歌である。イソジン(の含まれた水)でうがいをするときに喉に起こる刺激、違和感が「夕闇」に喩えられていて、その夕闇から連想するように遠い昔に迷子になった記憶が転がり出てくる。あるいは「喉」のほうが喩であれば、これは夕暮れどきという時間帯の不穏さの歌である。夕闇には一滴の原液がある、という想像が源にあり、イソジンを水に垂らしたときにぱっと色が広がるイメージが夕闇のグラデーションに重ねられている。そして、イソジンから導かれる「喉」によってその夕闇は擬人化され、下句ではかつての自分の残像が巨人に飲み込まれようとしているかような不安感が演出される。
どちらとも読めるし、どちらとも決めきれない。この歌はその両側から読める要素が慎重に重ねられ、どちらかに大きく傾ける決め手は排除されている。それによって喉は夕闇に身体性を渡し、夕闇は喉に奥行きを与えている。そして、どちら側にも足がつかないようにできているからこの歌の「わたし」は迷子なのだと思う。一滴、と視界が小さく絞られることで狭い喉が生じ、そこで流れがせき止められたことからの反動のように夕闇が広がる。一首のなかでイメージの展開と空間の伸び縮みが連動し、最終的な膨張のなかに「わたし」は放り込まれる。夕闇と喉が一体であればあるほど、「迷子のわたし」は「わたし」から分離していくだろう。いま現在の「わたし」に統合されず夕闇のなかを漂う「迷子のわたし」は、人の記憶のなかにあんがいたくさん抱かれているものではないだろうか。