批評めく言葉のあとのしずまりに病室(へや)に誰(た)がむく蜜柑がにおう

石床隆文『琥珀の時間』(本阿弥書店、2018年)
※( )内はルビ

 


 

石床隆文は1958年生まれ、リューマチ性の病によって十代から常臥の生活を余儀なくされた。2017年に逝去。『琥珀の時間』は石床のただ一冊の歌集である。

 

手鏡はわが眼となりぬ秋晴れの空を映せば透けゆくこころ
笛、太鼓響くなかより葡萄色に染まる夕空を手鏡に映す
手鏡の中に棺を見送りぬ病む身はつねに傍観者たり
手鏡の割れてひそかな想い出も青葉のなかに鎮まりかねつ
手鏡に秋のひかりは反射する眩む視野より蝶生まれたり

 

体の自由が利かなくて、手鏡越しにものを見る。〈手鏡の中に棺を~〉は父の死に際しての歌。ただでさえ死によって隔てられた父を、その上手鏡越しに見送る。自分を「つねに傍観者」と言い切る断念や悲しみ、その迫力のようなものに息を呑んだ。

 

介護する立場の君と入れ替わる静臥の空想いくたびの秋
他愛なく話せるきみの恋を知る一千光年の距離のごとくに
生命線みじかしと言いてわれに見す君の掌に初めて触るる
巡回に君の来しこと確かなる位置に溲瓶のありて目覚めぬ
君の住む街を知らねばこの朝の大きな虹の消えるまで見つ

 

はじめから諦めることを前提とした恋の相手として、歌集には「君」がたびたび登場する。〈介護する立場の君と~〉の歌について、棚木恒寿は「自らのことを「静臥の空想」という静かな客観、それとともに漂うほのかなエロス。忘れられない一首である」(「短歌往来」2018年7月号)と言った。自分もあなたの世話をしてあげたい、といった「立場」のこと以外に、身体そのものの入れ替わりや、入れ替わって相手の身体に自ら触れていくということを意識するとき、棚木の言う「ほのかなエロス」はもちろん意識されるし、その恋には淡いだけでない質感がともなう。

 

風は秋、秋は風になり中庭のコスモスの花を点してゆけり
実習に昼の湯船に洗わるるわが裡にきざす寂しさは何
静臥する二十二年の歳月は樹木にならばいかなる高さ
生殖を終えて漂う蜻蛉(かげろう)の翅ひかりいる夕暮れの水
白壁に影もてあそぶ物言えぬ友と笑えり虫すだく夜

※( )内はルビ

 

まだまだ、とにかくさまざまな歌を挙げて、この歌集のあらゆる側面を語りたくなる。きりがない。

 

今日の一首。この「批評めく言葉」がどんなものか、慎重に想像する必要があると思う。使う人によってニュアンスが異なるだろうし、あまり厳密に線は引けないが、「批評」は「批判」よりも客観的な感じ。ただ、客観的で分析的なのが「批評」だとするならば、ここにはあまり情が感じられない。それから、これは自分で発した言葉ではないかもしれない。自分が言われたということでもなく、病室のどこかからそういう言葉が聞こえてきた、ということなのかもしれない。あからさまに責めたり喧嘩をしたりということではないが、でもやはり「批評」であることははっきりと伝わって、言葉に含まれるそのニュアンスによって場がしずかになってしまった。そこに、誰かがむいた蜜柑のにおいがただよってきた。

 

蜜柑のにおいに場の緊張がやわらいだ、などと読むことも可能だろうけれども、そういう理に寄せたものよりも、まずこの一首から伝わってくるのは「場の空気」としか言いようのない質感である。だからどうした、というのではない。そこに身を置いているときに、その身を覆うようにしてあるその場そのものの空気感。理によってというより、体感によって感受された、その場そのもの。

 

日かげから日なたへ移る白き蝶春のはじめに見失いたり
療園を去りゆく職員見送りてまた病窓の雲を見ていつ
夕空にうすばかげろう舞うさまを独り夕餉の箸置きて見つ
療友の喪のいち日を腕時計はずし見ており疎林の雲を

 

「見る」ということが意識される歌を挙げた。これらの歌は、景や場面をたいへんあざやかに映している。しかし、その景や場面は、歌のなかの「見る」という語によって支えられているものではない。これらの歌の「見る」は、その眼差しの先にあるものではなく、その眼差しの質、心のありようのほうをむしろ映し出す。しかしそれは、理によって単純に言葉に置きかえられるような「心」ではない。見る者の沈黙の眼差しによってあらわれる余韻、余情と呼ばれるようなものだけが、一首からにじみだす。見失ったこと(それが春のはじめであること)、病窓の雲を見ていたこと、箸を置いて見たこと、腕時計を外して林の上の雲を見ていること……それらの背後の心情以前(以前、とまで言ってよいのか自信はないが)のなにかが、ただようようにそこにある。「見る」という語は使われていないが、例えば、

 

廻廊に待つこと慣れて梅雨空は右の窓より徐々に晴れつつ
胡瓜もみ酢に咽びいるこの夕べ夏の日差しは路地より暮れる
雨の降る讃岐の池には幾千の輪が広がりぬ美しき闇

 

といった歌も同様だ。

 

先に挙げた「手鏡」の歌は、まさに「見る」ことによって成り立つ歌だ。そして、自由には動けない石床を思えば、歌に「視覚」が優位にあらわれて当然とも思ってしまう。しかし石床の歌は、視覚だけに限定されたものではない。イメージや観念ばかりになることもない。自らの身体を起点とした、五感のすべてを意識させる歌だ。いや、「五」感、というふうに感覚を腑分けする以前の、その五感が統合されてあるひとつの〈体感〉こそが意識される。その〈体感〉によって、景や心情が、理に寄り過ぎることなく、いつまでも歌にとどまっている。歌の余情の独特のしずけさと湿り気に、いつまでもひたっていたくなる。