純白のヨーグルトムースのうへにのるペパーミントの栄光と孤独と

沢田英史『異客』(柊書房:1999年)


 

ヨーグルトムースとペパーミント。当然ながら主役はヨーグルトムースのはずだ。「栄光と孤独」は王者的な存在の陰影をいうときによく使われるほとんどテンプレートのような表現で、王者、ということを考えても、ミントを冠されるムースのほうがやはり王者なのではないか。だけど、この歌はあくまで「ペパーミントの栄光と孤独」にピントを合わせ、ヨーグルトムースのほうは純白の王座として退けさせる。ここにはささやかな下剋上ロマンがある。さらにむりやり掘り下げると、ヨーグルトの原料の製造主である牛が草食動物、ミントが植物である以上、出会い方がちがえば両者の力関係はもっとえぐい様相になっていたはずである。悠然とムースの上に乗るミントは勝ち組。
というような小さなロマンはしかし掲出歌のほんの隠し味でしかなく、その隠し味はおもに一首を美的に際立たせるために働いている。この歌は、弱者や脇役の味方のそぶりをすることから、そしてもちろん味方をしないことからも遠く離れた嗜好品だ。
洋菓子に添えられるミント独特の「栄光と孤独」というものはたしかにある。(たとえば和菓子に巻かれる桜の葉には「孤独」はないし、洋食に添えられるパセリには「栄光」がないような)。あの葉はスイーツの画竜点睛だし、でも、食べずに捨てられてしまうことが多いものでもあるだろう。そして、ミントがお菓子に対して果たしている重要な役割は異化作用だと思う。あの甘い清涼感は、お菓子の味に地続きのようでなんか変だし、天然の葉なのに人工的な刺激があるところも奇妙だ。ミントだけに限らないけれど、こういうジャンル違いの部品が添えられることで「食べ物」という目的のはっきりしたジャンルからすこしずれ、位相がぐらつかされるところがお菓子の最大の魅力だと思う。パンがあってもお菓子を食べればいいじゃない。
掲出歌は言葉でできているので味はしないけれど、「栄光と孤独」という部分が、現実のお菓子に対するミントの役割に近い異化作用を担っている。栄光、孤独、単独ではそれぞれ意味が重い名詞だけれど、組み合わされると途端に見慣れたセットになり、そのセット自体が保持する文脈によって「ペパーミント」とはっきりした関係をむすびきれない。その異物感がムースとミントを食べ物という位相から少しずらして、やたらうやうやしい美しさだけを切り出している。純白、栄光、孤独、テンションの高い名詞がちりばめられているわりに教訓もメッセージもないこの歌は、そもそも歌自体がカロリーばかり高くて栄養のないお菓子のようでうれしい。

 

でも、ヨーグルトにはカルシウムが……と野暮な食べ方をしはじめる前に、代わりに同じ作者の栄養のある歌も多少引用しておきます。人の視線の高さと空の高さのずれ、頭上の空間がつよく意識されていて、それによって自分が沈殿物であるかのような感覚を照射している歌たち。

かほあげて缶コーヒーを飲み干せばビルの狭間に空ひかりをり/沢田英史
もれいづるコピーのひかりがそばかすをときのま浮かす星あるごとく
身の底を流るる運河の凍てつきて天蓋あをき広場に立てり