染野太朗


水飲めば水さむざむと胃にいたる人を憎みてありし一日か

大下一真『存在』(不識書院、1988年)
※引用は第1歌集文庫『存在』(現代短歌社、2013年)より

 


 

文庫版の解説で柳宣宏が今日の一首と〈煩悩と呼ぶはたやすきかなしみぞ這いつくばって草抜いている〉とを挙げて、

 

 これらの歌には、一〇〇パーセントの憎しみと悔い、一〇〇パーセントのかなしみがあふれている。作者の特徴は、「水さむざむと胃にいたる」身体、「這いつくばって草抜いている」身体を詠むところだろう。それは身体感覚を詠むという技法の問題ではなく、身体でつかむという禅の骨法によると思われる。身体には分別の働く余地がない。よってこれらの歌には、一〇〇パーセントの憎しみと悔い、一〇〇パーセントのかなしみがあふれている。これが禅に生きるということだろう。

 

と言っている。歌の「技法」であらわれた身体感覚と「禅の骨法」によってあらわれたそれを(大下は僧侶だ)、歌の言葉の上でどのように見分ければよいのか、僕にはわからない。けれども「這いつくばって草抜いている」の歌に「一〇〇パーセントのかなしみ」を見るということには、頷けなくもない。「~たやすきかなしみぞ」を「草抜いている」という進行形の動作で受けて、今まさに噛みしめているという感じがある。ただ、かなしみではなく、「かなしみぞ」と言ってそれを自覚したからこその感情、つまり、自らに対する情けない思い、口惜しさ、やりきれなさ、怒り、……といった感情をもこの一首から想像してよいはずだ。上の句は「かなしみは煩悩である、というふうに言うのは容易いけれど、それでもなおその煩悩を自分は抱えてしまうのだ」ということだと思うが(……この解釈にはあまり自信がない)、そのような眼差しには、不如意の感覚も伴うのではないか。

 

それで、話題にしたいのは今日の一首のほうなのだが、こちらもやはり憎しみの「自覚」の歌であると思うし、この憎しみは、上に見た「かなしみ」よりもより遠い背景に沈んでいるように思う。また、自らの憎しみを自覚したという点において、つまり「一日を費やすほどに憎んでいたなんて……」という気づきにおいてそれを「悔い」と言うのだとしたら、それも僕にはちょっとためらわれる。

 

「水飲めば水さむざむと胃にいたる」。「水飲めば水さむざむと」と、「水」という語をくりかえして水をとらえなおすところに、水の存在を身体がはっきりと感じている、という感覚があらわれていると思う。身体を通る水を自覚するとは、すなわち、それを感じ取った身体への自覚でもある。水を感じ取った瞬間、つまり身体を感じ取った瞬間、その水は「さむざむと」と感受された。だからそれは、身体そのものがさむざむとしたものとして感じ取られた、ということでもある。

 

「水を飲めば水をさむざむとしたものとして感じるような、憎しみを抱きつづけた一日だった」というのではなく、「憎しみという感情にばかり意識が向いていたときには気づかなかった身体を、体の冷えをもって自覚した」というふうに読んでもよいのではないか。あり「し」、と言ってそれを過去のこととして見、また、一日「か」、といって客観的になって気づいている感じもその根拠だ。

 

「水」が、身体を通ることで、終日憎しみにばかり囚われていた自らへの眼差しを呼び起こす。「ああ、一日中憎んでいたのか」という自覚に至る眼差し。そしてそのあと、自らの未熟を思ったのか、むなしさを感じたのか、あるいは呆然となったのか。いずれにせよ、あくまでも目立つのは「さむざむと」だから、悔い、ということよりも、空虚な感覚を心情に重ねていくことのほうが読みとして僕にはリアルだ。そして、あくまでその起点にあるのは、自らの身体が発した「さむざむと」したシグナルのようなもの。

 

あるひとつの感情に囚われていた〈心〉を〈身体〉の客観によって解放した、といったようなことも言える気がする。

 

「いま自分という存在は心的な面でいかなる状態にあるのか」ということを身体が気づかせている。これはいかにも心身二元論的なありようだけれども、だとしてもこの一首から見えてくるのは、心のほうに主導権を握らせるような、あるいは、心に主導権があるのだと無自覚に思い込んでいるようなあり方ではない。くりかえされる「水」という語や、「腹」でなく「胃」と言っているあたりに、心身二元論的にとらえてその両者の乖離を感じているようなようすも見えるけれど、一首そのものが見せるのは、身体が、過剰に膨張あるいは遊離してしまった心とふたたび交わろうとするようす、とも言えなくはないと思う。

 

ひとときを怒りたるのち飯を食む生きて若葉のまぶしき季節
指組めばたしかに十本の感覚あり春は音なく黄昏れながら
漫画家が自殺の漫画描いている空どんよりと重たい午後を/大下一真『存在』