花束を買ふよろこびに引きかえて渡す紙幣はわづかに二枚

北沢郁子『夢違』(砂子屋書房:1995年)


 

原型のさびしさならむパフィオ・ペディルム一茎に一花みじろぎもせず/北沢郁子
紫陽花の青ふかき花に向かひゐしゆゑにか青き死にを夢みぬ
薔薇園の花のさかりの明るさに影を売りたる人かさまよふ
家内に花は絶やさずありたしといひゐし人は黄のフリージア

 

作者が「花束を買うよろこび」にどれだけくわしい人であるかはこうして歌集をあふれる花々から伝わってくる。ここには一部を引いたけれど、歌集中に花はとにかく多く、そして、この歌集にとって花はとくべつなモチーフである。どの花にもどこかしら人影が映されていて、それによって花はなんらかの境界線上に立つ存在のようにみえる。植物とも人ともつかない幻想的な輪郭が読者の手をつかんで引き込もうとする。花が漂うその境界線がしばしば生死の境のようにみえるのはおそらく錯覚ではなく、この歌集には挽歌が多く、とくに「長年の畏友大西民子の急逝」(後記より)は大きく扱われている。そのテーマと花は、花が葬儀につきものであるという直接的な連想や、あるいは餞のような意味合いも含めて連動しているものだろうし、しかしその連動を読みこむ必要は必ずしもないだろう。ここでいえるのは花束のことだ。短歌にはたとえば部屋にさりげなく飾られる切り花のように植物の名前が添えられることは多いけれど、それよりもうすこし踏み込んでそれぞれの花の表情を描く作者にとって、それを束で所有することは、華やぎだけではなくある種のうしろ暗さを抱かせる行為でもあるのではないかと想像する。そして、それゆえのよろこびの深さ。
掲出歌で、花と紙幣のあいだに貴賤はない。この歌が言っているのは「花束というよろこび」ではなく「花束を買うよろこび」のことで、花と紙幣はそのよろこびに対して共犯関係にある。
わずかに二枚の紙幣。この歌集が刊行された約二十年前は、現在と景気は違えど物価はそれほど変わらない。たぶん二千円だろうな、と思う。五百円札はすでに流通していないし、二万円の花束はだいぶ非日常なサイズのものになる上に、二万円を「わずか」と見得を切るような力み方はこの歌からは感じない。そして、ここで金額が伏せられていることは謎かけではないと思う。「たぶん二千円だろうな」と読まれることは計算はされているだろうけれど、そもそもこの歌は金額はあまり問題にしていないのだ。大切なのは枚数。花びらを数えるときの数え方でお金を手放すこと。つまり、「わづか」とは二枚の紙幣のことを「花束の価値に対して安い」といっているわけでも「このよろこびに見合わないほど安い」といっているわけでもなく、「花びらに比べて少ない」といっているのだと思う。一般的な花びらの数に比べたら二枚はたしかに「わづか」である。
ここで指を離れる二枚の紙幣は、遠からず花の茎を離れる花びらだ。この歌でもやはり花と人の身体は「いずれ滅びる」という感覚の上に重なっているのだった。

 

 

歌集名の「夢違」というかっこいい言葉は辞書を引くと「ゆめちがい」「ゆめたがえ」と読み仮名が出てくるんだけど、この歌集名は「むゐ」らしいです。表題歌は〈夢違(たが)へやらむと微笑(みせう)たまへども夢といふものなきは如何にせむ〉。