何をみても何を聞いても掘割のむこうの木さえ動かぬものを

大島史洋『藍を走るべし』(新星書房、1970年)
※引用は第1歌集文庫『藍を走るべし』(現代短歌社、2012年)より

 


 

周囲のものから何かを感じ取ろう、思考しよう、としているのだろうか。何を見ても聞いても、それからおそらく、何に触れても何を味わっても、「掘割のむこうの木さえ」風に吹かれるなどして動くようなことがない。何ひとつとして自分のこころを動かすようなものがないということか。あるいは、〈世界〉は自分の期待や働きかけにかかわらずそこにあって、しかも自分の思うような形や変化を見せない、ということか。にもかかわらず、見てしまうし聞いてしまう、ということだろうか。「ものを」は「…のになあ」という終助詞でとってよいだろう。木というものの一般を指しているのではなく、この人がまさにいま見ている「木」であることが、「掘割のむこうの」という限定によってわかるし、「さえ」によって、動いてもよさそうなものとしてこの木がちょっと見くびられているような感じもある。けれども手前には「掘割」がある。つまり、「さえ」と言われて「最低限動いたってよさそうなもの」というニュアンスを帯びつつも、その「木」は、はじめから隔てられている。

 

わざわざ「むこう」と示されたところにある木だから、その動きは、ざわめく音よりもまず視覚によって確認されるものだという気がするのだけれど、「何を聞いても」と聴覚についても挿し挟まれると、この木が、具体的に手触りのあるモノとしての木というより、観念上の木、という感じがしてくる。掘割を挟んで向こう側はすでに観念の世界、という感じ。あるいは、「何をみても何を聞いても」が〈世界〉一般に対する観念上の認識で、「掘割のむこうの木」が唐突にこの現実のもの、手触りのあるもの、というか。いずれにせよ、歌の措辞の上でも「掘割」を挟んで上下の位相が異なる。……というふうに読んだら最後、「掘割のむこうの木」というのが、「これはつまり何の象徴なのか」といって読者の解釈をいくらでも呼び込むと思う。

 

動かないとわかっているのに、それなのに、見てしまうし聞いてしまう。

 

船の上にたすきをわたす光景をなんの力でみているか俺は

 

船が出航する場面か。「たすき」はあの紙テープのことだろうか。その「たすき」に目をやっているのだが、なぜ自分はそれを見るなどということをしているのか、と自らを見つめ返している。どういう力がいま自分にはたらいているのか、と考えている。しかしそれが「なんの力」かは明かされず、推測もされず、見てしまう「俺」のみが、「は」のわずかの詠嘆をともなって一首に固定される。今日の一首も同じように、「木」を見つめる自分だけが「ものを」をともなって固定されている。

 

不如意、むなしさ、あるいはいらだちのようなものまで読み取れそうな感じだけれども、案外そういう自分や自分の状況を肯定しているんじゃないかな、というようなことを思う。「なんの力」に影響されているのかわからない自分を、それでもそのまま歌に差し出すありようは、苦しんでいるようでいて苦しんでいない。むなしさを感じているようでいて、その奥に満ち足りた自分がいる。こういう言い方をすると、自己陶酔をあえて読んでいるというか、この人をやや否定的にとらえているようだけれども、そうではなくて、疑問とか不如意とか悩むとかいったことが、その人それ自体を支えるということってあるよなあと考えたりしたわけです。ネガティブな(と思える)何かを解決することがその人にとって本当に必要なことかどうかはわからない、というような。

 

アパートの前の花壇にこしかけていつまでも君空をみている
おのれひとりで落ちこんでゆきながらなお釣瓶の如き人の恋しき
俺だって何かやれるさ牛のような下畑君とうきをならべて
所詮ひとりと思う心のおごりにはやさしきかなや山の光は
指摘されし汚点のひとつ冴ゆるかなまなこは白き回転木馬
夕暮れて海と空との抱きあうその寸前に冷えてゆくもの
たえまなく砂の気化する浜に来て髪のやけゆく臭いする朝/大島史洋『藍を走るべし』