平岡直子


泣いたあと君の右腕枕にして線路のようにずっと恋人

田中槐『ギャザー』(短歌研究社:1998年)


 

田中槐の第一歌集『ギャザー』は絶版歌集。この世に絶版で入手困難な歌集は多すぎるほどあり、そのなかにほしい歌集もまた多すぎるので一冊ずつ能動的に探したりはあまりせず、ぜんぶを「見かけたら買う」リストに放り込んでいるんだけど、『ギャザー』についてはある日なぜか衝動的に「やっぱりほしい」と思ったので勇気を出して作者に問い合わせてみた。しかし、案の定、在庫はないとのこと。ところがその翌週にあっさり古書で手に入ったのは、わたしが作者に出した問い合わせメールが時空をゆがめてどこか然るべき機関に届いたんだと思っている。天上の配本センターのような場所に。

 

掲出歌は甘やかな一首。感情が昂ったあとに恋人の腕枕で安らいでいる場面だろう。だけど、どこかざらりとした違和感があるのは「線路のように」だ。甘やかな雰囲気に乗って解釈すれば、線路はいつまでも続くものの象徴かもしれないし、二本のレールに寄り添っていくふたりの様子が託されているのかもしれないし、鉄素材の頑丈さが関係性のつよさを表しているのかもしれない。そういったニュアンスも歌に含まれているものだとは思うけれど、それよりも先に、この歌のなかでの線路は「枕」から縁語的に導かれた名詞のように思われる。腕という棒状のものを「枕」にすることと「線路」は、書かれていない「枕木」を挟んできれいにつながる。つまり「線路のように」がいっているのは第一には「君の腕は枕木である」だ。
名詞のイメージの連関のスムーズさが、線路にふわっとした喩としての役割を越えさせ、歌のなかに具現化させてしまう。「線路のように」という呪文によって恋人がコンクリートの枕木になってしまったことが作者にだけみえていない。線路そのものに向かって「ずっと恋人」とひとりごちているようなどこかシュールな印象は、だけど、だからこそ説得力もある。「ずっと恋人」のような台詞はたいていの場面では儚く、薄く響くものだけど、線路はなにしろどこまでも続くものだから。

 

逃げてゆく君の背中に雪つぶて 冷たいかけら わたしだからね
君だって十三歳(じゅうさん)だから菜の花をいっぱい飾る春が好きでしょ

「ずっと恋人」「わたしだからね」「春が好きでしょ」一首の途中の飛躍に追いつかないままで断定する結句。それによって歌に「ギャザー」が寄る。歌がたまたまたどりついた場所のつじつまをきちんと合わせにくるこれらの歌から感じるのは、結果論を運命にすり替えていく究極のロマンティストだ。
たとえば「天上の配本センター」を信じるのもロマンティストの発想だけれど、「天上の配本センター」という存在を言語化して設定しないと運命を感じられないのは中途半端なロマンティストだともいえる。「天上の配本センター」はロマンではあっても詩ではないと思う。この歌集に書かれている運命には、配本センターのような中継地点がなく、それが歌に新鮮な角度をあたえている。どんなかたちであれ歌がつかんできた偶然に確信を持つことが、その偶然を生かすのだと思う。

 

 

せっかく入手したのでもう何首か。

風景は他人のようだ 夕闇が光を奪うときの苛立ち/田中槐
平泳ぎはゼリーを食べてる感じだね あたしのまわりの冷たいきれい
夜の湖(うみ)ほのかに光る垂線にそってわたしの斧沈みゆく
父さんを失くした夏と母さんを失くした夏を結ぶ野薊
とつとつと語るように夜の時計聴いているのは傷ついた耳