別るるためまことわかるるため会いて五十三年 母を葬(はぶ)りぬ

三枝浩樹『時禱集』(角川書店、2017年)
※( )内はルビ

 


 

多くの挽歌を含む『時禱集』だが、そのなかでも特に印象的な一首だった。

 

誰にも死が訪れる以上、究極的にはいかなる出会いもそれは別れに通じている。だからこそ相手との別れに際して「よい出会いだった」と思えるようにわれわれは努めるのだ、「最良」の別れのために出会いはあるのだ……といったような、どこだかの精神科医・心理学者が示してみせたことを下敷きにして読めばよいのかもしれない。

 

初句の「別るるため」で、僕がいま言った「誰にも死が訪れる以上……」という出会いと別れの真理のようなものを一般論としてまず想起し、次の「まことわかるるため」で、それを個人的な実感としてふかく確認する。相手は母親ではあるけれども、母の元に「生まれた」といったような言い方ではなく、「会う」という語が用いられているから、読者として、その一般論としての出「会い」と別れの真理ということをイメージしやすい。だから、「ああ、母との関係においてもまさに、この別れは決まっていたことなのだ。そして、自分はいまここで「最良」の別れを迎えることができた、と言えそうだ。それほどに十分に関係を築き得たのだ」と思った、「人間は人間と「最良」の別れのために出会うというのは本当だったのだ」と確認した、いうふうに読める。ここで言う「最良」というのは、よいこともままならなかったことも含めてその相手との関係全体を肯定する、ということ。あるいは積極的に「良し」と評価するのではなく、その人との関係における後悔ややり残しの思いも含めて、そういうものとして自分(の思い)を認める、というところまで踏み込めるかもしれない。

 

ただちょっと、そのように説明してしまうとどこかこの歌の核心をつかみ損ねる気もする。「別るるためまことわかるるため」とくりかえしながら、「会いて」という三音の一語であっさりとそれを受けているところに、僕ははじめびっくりした。理屈がまるで通らないと思った。上に記したような出会いと別れの真理を意識してもなお、「別るる」と「会いて」を「ため」でつなぐその論理的な飛躍が大きいと思った。だから逆に、この「わかるるため」は、理によってとらえたのではないもっと直感的な実感ではないかと思った。

 

まさにこれが「別れ」というものなのだと(ふいに)強く実感した。悲喜や後悔その他を含めてこれほどに心が動くということをもって、相手との関係の濃さを実感した。それは、受け入れるとか肯定するとか、「最良」といったような判断をするとか、そういったことのずっと以前の、自分にとって相手がどれほど大きな存在であったかということにただただ圧倒される経験、気づきだ。あなたの存在が自分にとってこれほどに大きいのだと実感する(別れの)「ため」の出会い。最後に残ったのは〈事実〉としてのあなたの大きさであったということ。

 

「別れるために出会う」とは、〈過去から未来へ〉という時間軸を逆さまにとらえたような言い方だ。出会う前からあらかじめそこにあって、出会ったときにはすでに先取りされて自分のなかに育まれていたかのような相手のかけがえのなさ。そうとらえるとき、つまり相手は絶対化され、普遍化される。だとしたらそれは運命などということばにも置き換えられるのかもしれない。……かなり情に流れたような言い方になった。歌のなかの「ため」が、出会いと別れを理屈で縛るような語でありながら、逆説的にむしろ理屈を超えた直感を示しているようで、それが、感傷的な気分をも読者にゆるしてくれているような気がする。

 

『時禱集』には、さりげないものでもよく読むと、思考と直感、マクロの視点とミクロの視点、遠景と近景、実景と想像、といった対極のものが溶け合ったような歌が少なからず含まれているように思う。音や韻律もちょうどよくそれを支えている感じがする。

 

最後にもうすこし引きます。

 

職場までむかういつもの道なれど霧深ければ霧にぬれゆく
霜月のひかりのなかに散りいそぐこまかなるこまかなるからまつの針
キセキレイ水辺にいたり微動する鏡となりてゆく秋の川
野と空とそのほか何もなき中に入らんとしつつ見る人われは
きみに充ちてきわまりし悲(ひ)を思うかな悲は氷また火なり透きとおりゆく
何も足さない何も引かない境界のひとすじ見えて匂う夏草
黄葉の遅速の色の寂(しず)かさに従いながら木の間をくだる