平岡直子


時計より出(い)で来て踊る人形の目線は遠き夏木立かも

中川佐和子『海に向く椅子』(角川書店:1993年)


 

からくり時計の歌。暗がりから出てきて暗がりへ戻っていく人形が、みじかい外での時間に遠い景色をみている。機械仕掛けで自動的に出てくる人形だけど、夏木立とならべられることで生命力があたえられ、たとえば夏に地上に出てくる蝉や、木々の勢いのいい芽吹きなどのように、季節に呼ばれて外に出てきたようにも感じられる。
頭上を飛び越えている歌、という印象を抱く。これは街のからくり時計がたいてい高めの位置に設置されていることにも関係があるけれど、この歌において人形と夏木立の縮尺がだまし絵的に一致してしまうことによるような気がする。人形は小さく、夏木立は遠く、遠さと小ささはみため上は同じことだ。そのふたつのサイズ感が重なってたまたま一枚の絵のようになるとき、そのあいだにあるもの、絵にとって規格外のサイズのものが人間を含めて透過されてしまったような歌だと思う。遠近感の狂いがおもしろい。それによって、みられる専門の人形からの目線が仮想されるだけでなく、逆転してそれをみているはずの人間が視点だけの存在になっている。

 

時計は時刻、夏は季節だ。つまり、視覚的なサイズ感だけでなく、人形と夏木立はそれぞれサイズの違う時間軸を司る。からくり時計の人形の最大の魅力は「この十二時と次の十二時は同じものだ」といってくるところにあると思う。時間を直線的な流れとしてではなく、ひとつの輪の上をぐるぐるまわる繰り返しとして認識させること。アナログの時計はそもそもそういうものだけど、こと人形というのは象徴的だ。人のかたちをしていて、老けない。しかもそれが定期的に祝祭感とともに踊るのだから、なんだか不老不死を手に入れたような妖しい気分にさせられる。だけど、わたしたちは心のどこかで知っている。これに魅入られていると自分がなにか然るべき位置からずれていってしまって、いずれ浦島太郎の玉手箱のようにどこかでツケを払わなくてはいけなくなるということを。だいたい、人形は老けないけれど古くなるしたぶんある日とつぜん壊れたりもする。
掲出歌ではそこにドーピングのように夏木立が添えられる。季節は巡り、木は枯れてまた芽吹く、ここには時間という概念とはべつの生態系の循環があり、読者はふたたび繰り返される輪に接続される。だから、この歌の人形と夏木立がひととき一枚の絵に収まっているような錯覚には、同時に「永遠」の完成を錯覚させられる。人間いないんだけど。いないからこそ。