染野太朗


空のなかから降りて来たのかみづいろの自転車風に輝いてゐる

時田則雄「くれなゐの種子」(角川「短歌」2018年6月号)

 


 

「くれなゐの種子」は28首からなる。

 

空の色と自転車の色がどちらもみず色。その自転車のハンドルや泥除けやスポークが、日の光を受けて輝いている。色の共通性があるからこそ自転車に対して「空のなかから降りて来たのか」という発想になるのだろう。そしてそれは疑問形で提示されているから、自分が今乗っている自転車ではないのだろう、視野にある(他のだれかの)自転車を指しているのだろう、と自然と想像できる。風に輝く、とあるから、この自転車は今まさにこの人の視界を横切って、風を受けて走っているのかもしれない、と思ったけれど、「降りて来た」という縦方向の動きが歌のなかでは目立つからか、あるいは、この一首からは人の気配が感じられないからか、僕は停まっている自転車として読んだ。空から降りて来たからこそ、空からの使者のようだからこそ、その空を吹く風によって輝く……いや、その逆で、周囲の、例えば樹木などが風にそよいでいるような場で、風が印象的に感じられる今だからこそ、自転車が空の使者のように感じられる、風の仲間のように感じられる、ということ。だとしたら、輝いているのは、自転車であるよりもまず、空なのだと思う。自転車を輝けるものとしてそこにあらしめる風、それが吹いてくる空。輝いて「ゐる」という進行形はとても大事で、何よりその光そのものを読者に印象づけるけれど、その輝きをじっと見つめてもういちど一首全体を見渡すと、風と自転車を(あるいはそれを見ている自分をも)遠く上のほうから見守って包み込むような「空」の存在が大きく感じられてくる。

 

とてもシンプルな構造の歌で、まずは共通のみず色に、そして「自転車」とその部分部分の輝きに目がいくけれども、輝きを与えるのが「風」であることをよく味わえば、その風と、そしてそれが生まれる「空」への賛歌としてこの歌を読むことができると思う。時田が北海道の広大な土地で農業を営んでいると、その作者情報を重ねてもよいのだけれど、それをしなくてもおそらく汲み上げることのできる、詩情としての賛歌。

 

初句七音という字余りや、カの音や濁音が、歌の韻律に散文的な硬さを与えていると思うのだが、それがふしぎと邪魔にならず、内容が甘く流れるのを食い止め、輝いて「ゐる」というたっぷりとした詠み据え方とともに、むしろ(時田の歌ならではの)伸びやかさや素朴な大らかさを演出しているように思う。骨太、という感じがある。

 

あたらしき地下足袋履きて歩みゆくふはりふはりと陽炎のなか
イフンケを聴きつつ流れゆく雲を見てをり白き椅子に凭れて

イフンケ=アイヌ語=子守唄

なだらかな坂をくだりてゆきたれば辛夷の花の宙(そら)に輝く
一週間かけて長芋掘りあげて深夜湯槽に腕伸ばしをり
くれなゐの種子を播きをりくれなゐの花咲くといふ訳ではないが

/時田則雄「くれなゐの種子」

※「イフンケ=~」は歌に付された注、( )内はルビ