父母がゆらゆらなづむ夕つ方サイボーグのやうにあたしは速い

麻生由美『水神』(砂子屋書房:2016年)


 

なんかやばい歌集を読み始めちゃったぞ、と気づきはじめていた。風のつよい深夜のデニーズで。軽い気持ちで開いてしまったのだけど、思っていたのと違う方向にどんどん連れていかれる歌集だった。
歌集の最初にはこういう歌が置かれている。

パンプスのかかとを鳴らしドアを出るわが装ひはたたかひのため

気合いの入った巻頭歌だ。なるほど、働く女性の歌集ね、と頷いたわたしの早合点を責めないでほしい。実際に冒頭からしばらくは歯切れのいい迫力で教師としての職場詠がならぶ。だけど、それからテーマはスライドしていく。東日本大震災や過労死や憲法やいろいろな題材が、それぞれかなり力強く真正面から詠われるので、読みながら何度か「なるほど、〇〇の歌集ね」を訂正したのだけど、わずか五十ページほどでどうやら作者自身の癌が発覚する頃にはわたしはもう、なるほど、闘病記ね、とは頷けなかった。

生き物の耐用年を過ぎたればがんになるとよさはさなれども

一つだけ取り出しても一冊の歌集の主題としてもちそうなテーマが気前よくどんどん繰り出されるので、一つ一つの内容の重さより、その展開のスピード感に圧倒される。第一部ですでにあまりにたくさんのことが起こるのだけど、第二部ではそれらをすべて忘れたかのように、いや、忘れたわけではなく、第一部でのいろいろなことが理由ではあるのだろうけれど、主人公がとつぜんお遍路さんになってしまう。わたしは「え?」って声が出ました。第二部はまるごと遍路旅について割かれていて、細い一本の道沿いに心象風景と四国の景色がかわるがわるにあらわれるような、かなり精神的なつくりの部になっている。

東京は雪と聞く日やあふられて風の室戸にたどりつきたり
歳晩の光のみちを降りゆけば海がひらけるわたしがほそる

そして、つづく第三部では故郷、親、風土などを主題にしつつ、いちおう第一部の続きを生きているようなのだけど、時系列的にお遍路さんの第二部とどういう関係にあるのかがよくわからず、なんだか夢でもみていたような気分になってしまう。
それぞれの歌が変なわけじゃない。構成がトリッキーなわけでもない。歌集全体から立ち上がる作者像がキャラクター的に変なわけでもない(ちょっと変だけど)。この歌集が変なのは、読み進めるごとに読み手のギアが勝手に変えられていくところだ。たしかになにかの「つづき」を読んでいるのに、同時に「今までのお話」が消滅しつづける感じがする。一首ごとの屹立性、歌集の背後の私性、どちらとも関係があるようで関係のないこの現象は歌集としては珍しいと思うけれど、かと言って散文的、小説的なわけでもない。

 

一首ごとにみていくとそれほど突飛なつくりのものはなく、感情の張りは全体的につよいものの、端正で美意識を感じさせる歌が多い。そのなかで、掲出歌には歌集自体のやばさがやや反映されているだろうか。この歌は第三部から。
ゆらゆらなづむ陽炎のような「父母」は、おそらく両親の老いを感じとっているものだと思うけれど、父母の動きの遅さや存在感の薄さに対する不安感がどこかユーモラスに切り取られた表現。しかし、下句で「あたし」が過度に「速い」のは、そのゆらゆらしている父母基準で考えるからである。上句では自分の側を基準にして父母の鈍さのことをいっていたはずなのに、いつのかにか基準が切り替わっていて、その結果「あたし」は速くなりすぎ、サイボーグになってしまう。そして、自分をサイボーグ=人造人間だと認識することは、「父母」との生物学的なつながりの根拠を切り離してしまうだろう。気づくとあまりに寄る辺ない場所に運ばれているのだ。
この歌集では一貫して旧仮名遣いが採用されており、この歌も、旧仮名遣いなだけではなく「なづむ」「夕つ方」と古語が使われていて、そのなかに「サイボーグ」や一人称の「あたし」などの現代的な語彙が混入する。こういうミックス文体はもちろん珍しいものではないけれど、幽霊のような父母と、人工的なサイボーグとのあいだに引き裂かれるように「あたし」の存在が見え隠れするこの歌においては、古語と現代的な語彙が引き合う文体もつよい必然性を感じさせられる。