染野太朗


この世とは忘れてもよいことばかり蜆をひとつひとつ食みおり

鶴田伊津『夜のボート』(六花書林、2017年)

 


 

今日の一首は、一般によくある、上の句下の句照応型の歌。たとえば、上の句下の句どちらかで思いを述べて、もう片方で景や出来事を述べる、というような。「この世とは忘れてもよいことばかり」と「蜆をひとつひとつ食みおり」のあいだにいかなる対応を読むか(あるいは読まないか)が読者の腕の見せ所。なのだけれども、なんだかこの一首、ちゃんと読めるようでいまいち読めない。歌集を読みながらずっと気になってしまった。目の前の小さな蜆のひとつひとつを、身を貝からはずして、たぶんうつむきながら食べている。この世のことをかみしめている。こまかい動作をしてちょっといじけたようになっているようすが、諦めや開き直りの気持ちに対応している、と読んでもよさそうなのだけれども、蜆の身をひとつひとつ食べるというのは、時間もかかるし、案外、充実した、贅沢なことのような気もする(味噌汁やお吸い物の蜆は出汁をとっているだけだから身は食べなくてもいいんだよ、なんて言われたこともある)。忘れてもよいことばかりだ、だから忘れてしまおう、といってすこし風通しのよい心持ちで、蜆のひとつひとつを味わう。食の充実を思うと、これを諦めとか開き直りとかいった言葉でまとめるのはためらわれる。この歌の前後には、

 

極私的かなしみのため泣きはせぬぞ日傘の影を移動させつつ
鎮痛剤抗生剤と『蓼喰ふ虫』並べておきぬ夜半の目覚めに

 

という、心身ともにすぐれないような歌もあるから、どちらかと言えば今日の一首も、うつむいている、ということを何より感じ取るべきなのかもしれないけれど。そもそも、歌集の一首目が、

 

ぽんかんはぽんかんの香を放ちつつまはだかとなり人の掌のなか

 

といって、色合いもにおいも魅力的で音もあかるく開放的、に思えるけれどもそれが「まはだか」(完全に剥かれている、ということだろうか)で、人の手の内におさまっているというところには、魅力的だとか開放的だとかいう言葉でくくってしまってはならない、ちょっとした痛みや怖さも感じるのである。つまり、歌の重心を一点に定められない、ということ。それは歌の構造に問題があるいうことではなくて、歌の輪郭ははっきりとしているのに深入りするとすり抜けていってしまう、というような……短歌なんてだいたいそういうものだからそう言ってしまうとなんだか身も蓋もないような気もするけれど、とにかくそういう印象がいつまでも残る歌だった。

 

大縄におそれもせずにはいりゆく子らの背中に砕ける冬日

 

これも、「おそれもせずにはいりゆく子ら」というところに「子ら」の無邪気さや徹底的な明るさ、あるいは頼もしさなんかを読もうとしていると、その背にあたる冬の日は「砕ける」という語でとらえられていてつまづく。走ったり跳んだりしている背中に日が当たるようす、背中が光を上下左右にかき乱すようなようすをそう表現しているのだと思う。でもそれを、砕ける、と言われると「子ら」の攻撃性が見えるというか、「子ら」がなんだか悪魔的なものにも見えてくる。

 

「飛ぶ」という能動のなきこのからだ夕焼けチャイム鳴る町をゆく

 

夕方の決まった時間に流れる音楽だろうか。その音自体はのんびりしていたり、ものさびしさや郷愁を誘うものだったりするはずだから、そういうものを一首から導こうとするのだが、できない。飛べない、ではなく、そういう「能動」がないのだといって、さらにひとつ踏み込んで自らを見つめる。ものさびしさや郷愁を感じられなくもないけれど、それは宙吊りにされたまま、「能動のなき」という思いが、俯瞰でとらえられたこの人の「からだ」と一首全体を占めていて、その窮屈なような眼差しと体感を無視することはできない。

 

最初に、上の句下の句照応型、などと簡単に示してしまったが、『夜のボート』にときおり出てくるこの、「照応」ということにぎりぎりで収まるような収まらないような、きっちりと対応させてしまうと何かをとりこぼすような、先入観をもって臨むとしっぺ返しを食らうような、そういう歌にふしぎな魅力を感じる。

 

萌え出ずる木々の呼吸に踏み入りぬ昨日の怒り思い起こせり/鶴田伊津