三叉路でいつも迷っているゆえに木になってしまった紅さるすべり

星野満寿子『西暦三千年の雪』(書肆侃侃房:2018年)


 

 

歌人たる者、図鑑のように植物の名前を知っていなければならない、その程度の教養もなくして歌を作るな、という過激派がたしかに存在する一方、その対極では花屋の店先で薔薇をチューリップと呼んでしまったというエピソードをエッセイに残している穂村弘や、永井祐の短歌〈看板の下でつつじが咲いている つつじはわたしが知っている花〉が、植物の名前なんかしらなくてもスター歌人になれることを証明する。わたしは花は好きなのですが、「歌に使われるべき名詞」のジャンルにカーストがあるのは納得がいかないので、気持ちの上では植物の名前しらない派のほうにシンパシーがある。なので、さるすべりをしらない、みたことがない、説明されても興味がない、という場合でもこの歌はおもしろい、ということをまず書いておきたい。ちなみにさるすべりは名前は変だけどわりとそこらじゅうでみかける庶民的な樹で、民家の庭に植えられる樹としてメジャーなほか、公園や道端に街路樹的に並んでいることが多く、今くらいの季節から秋にかけてピンクの花が咲いてるやつです。
さて、掲出歌のまずちょっとした読みどころは「迷っている」が現在形であることで、木になる前と後で紅さるすべりの内面は変化していないようだ。それによって、このさるすべりの「さるすべり以前の姿」が白紙にみえる。何者かが転生したわけではなく、想念が煮凝ってはじめて形を取ってしまったようなこのさるすべりは、書かれることではじめて存在する言葉の性質をなぞっているともいえるだろう。
迷うゆえに木になってしまう、という現象は、進むべき道がわからなくてそこに立ち止まる、立ち止まりつづけてその場所に根が生える、ということでもあるけれど、三叉路を擬態することでもあると思う。つまり三叉路と樹木のかたちの相似は、自らが三叉路になってしまえばもう迷わずに済む、という無茶苦茶な解決法を示している。「三叉路」という名詞のあとに象形的に三叉路である「木」という文字が歌のなかに刻まれることが、その解決法を裏付けているようである。一見すると樹が擬人化されているようなかわいい雰囲気がある歌だけど、実際のところは言葉の擬樹化(?)が行われているのがこの歌のおもしろさだと思う。

 

『西暦三千年の雪』は出たばかりの歌集、キャリアの長い作者のようだけど、第一歌集とのことで、知らない人も多いのではないかと思うので、もう何首か引いておきます。

無人駅に待ちたるはははもういない 落ちてきそうな眉月うかぶ/星野満寿子
銀漢の水の心地す星形のソーダ味キャンディ含みておれば
目を閉じてみている光脳髄の蛍一匹なかなか死なぬ
コスモスを部屋になみなみ飾りいる妹羨し秋の真ん中
梨、蒲萄、無花果秋のテーブルに翼をもたぬわれの飲食(おんじき)

花鳥風月と身体性のかけ合わせが言葉の質感を異化していくような歌を魅力的に感じた。ちなみに帯文および解説を染野さんが書いていて、〈野に忘れ来たりし鋏 円形の虹は断たれて野の果てに立つ〉という歌の読解がとくによかったので染野さんのクオリアのファンの人は読むといいと思います。