五階より見おろす庭に傘とかさ出逢ひてしばし画鋲のごとし

有川知津子「ひとりしづか」(「水城」第270号、2018年)

 


 

「ひとりしづか」は10首からなる。

 

結句を読んで「え、画鋲」と驚いた。「出逢ひ」という語を生かそうという内容上の、そして技術上の欲のようなものが感じられなかったから。上から眺めて、傘の形を画鋲のようだと言っている。形だけでなく、そこに固定されているようすも指して画鋲なのだろうから、このふたりは親しく、夢中になって話しているのかもしれない。そう考えれば「出逢ひ」はもちろん、たとえば恋の類いを物語として添わせつつ読めなくもない。でも画鋲である。頭がプラスチック製の、ちょっと丸みを帯びた、カラフルなものを想像するべきなのかもしれないが、平たい金色のそれだって同時にイメージできてしまう。だから、画鋲にたとえられたら、それはあくまでもモノとしての側面にのみ焦点が当てられているようで、「出逢ひ」はもうロマンチックな物語を引き寄せない。「出会ひ」や「出合ひ」でなく、わざわざ「逢」と表記しているのに。もっと言えば、「傘」と「かさ」、という表記の差だって、情緒あふれるなにかを引き寄せようとしているように見える。でも結句の画鋲のおかげで引き寄せきっていない。そしておもしろいのは、いま記したような僕の読み方でいくと、結句まで読んでからこの「傘とかさ」に返ったとき、それが親子であれ友人同士であれ同僚同士であれ、その下の人物の換喩としてはたらいていたはずの「傘」と「かさ」が、たちまちにまた傘というモノそのものに戻ってしまうということ。「出逢ひて」という措辞を通過することによってせっかくその下の人物が見えてきたのに、またすぐ傘に戻ってしまう。

 

なにか特別にものを言いたげなフォルムを見せながら、このような結句による構造が発しているのは、「とりあえずまずはモノを読んでください」というメッセージに思える。

 

やはらかな声を運んでくる鳩のその羽の色はつきりとせず
ベランダの手すりを蹴つて飛ぶ鳥のその音聞けば爪は硬しも

 

「やはらかな声を運んでくる」と詩情をゆたかそうに見せておきながら、そして「蹴つて飛ぶ鳥」とすこしの擬人化と飛ぶときの勢いを見せておきながら、結句で示されるのは「羽の色はつきりとせず」であり「爪は硬しも」である。やわらかさとはっきりしなさのあいだにも、蹴ることと硬いこととのあいだにも、詩的な意味での飛躍は決してない。だから歌がめずらしい様態を見せているわけではない。そしてここにはもちろん詩情を汲み取ることもできるはず。抒情に浸ろうと思えば可能なのだろう。でもなんだか、詩情や抒情のほうへ飛びきっていない。一首が対象を、情ではなくモノの側に引きとどめているように思う。

 

それでも、情を排してただモノを描く、というのとはちがう。ふしぎな質感の歌だと思う。

 

最後に、「COCOON」第8号(2018年)の同じ作者の歌を引く。

 

おのづからさういふ心持ちとなり浅き小箱のほこりを拭ふ
島からの包みを解けばゆたかなる緩衝材のなかに快癒器
春はいつ終はるのだらう瓦斯灯にニベアの缶が照らされてゐる
ぽくぽくと花梗の落ちる音がするぷうぷうと鳩の鳴く声がする/有川知津子「快癒器」