しんくわ『しんくわ』(書肆侃侃房:2016年)
これを短歌として扱っていいものか迷わされたのは、見ての通り短いからである。句切れっぽいところで切ると
夜にチョコ/あげよう石田/三成も/あげよう
くっきりした句またがりを交えつつ正確に七五調で、短歌の定型に照らすと四句目の途中で終わっていることになる。この歌が入っている「春百景」が、歌集『しんくわ』のなかではいちばんおもしろい一連だったけれど、困ったことにこの一連が最もカテゴライズしづらい。『しんくわ』はそもそもいろんなジャンルの作品が詰め込まれた本で、歌集ということにはなっているけれど短歌作品の占める割合はそれほど高くない。何本ものエッセイや俳句連作、珍しいところでは「カード集」の章もある。そして、これら短歌以外の作品も基本的にはジャンルは明確なのだけど、「春百景」はジャンルをまたいだ作品がボーダーレスに並べられていて、しかも単純に複数のジャンルの作品がひとつの連作に入っているというのではなく、分類しづらい、割り算の「余り」のような作品が多いことが話をややこしくする。
たとえばこの一連に入っている〈一円足りなくて銀杏の落ちる音〉や〈厄年の男の背のねぎまみれ〉は、これはあきらかに短歌ではなく、分類するなら川柳だよな、と思うし、逆に〈結んでひらいて茸になって釘と間違えられて打たれる〉や〈フレッシュな服に囲まれて春のGUで頭を抱えたよ昨日。靴まで売ってた。〉ははっきり短歌だと感じるのだけど、掲出した作品や、ほかにはたとえば〈冷たい水で頭を洗う生きるorゆっくり死ぬ〉を分類するのは難しい。これらは川柳と短歌の中間にある作品のように感じられるし、それは単純に長さが「十七音以上三十一音以下」であるという以上の理由があるようにも思う。
しかし、わたしがこの一連をいちばんおもしろいと思うのは、作品のジャンルが未分化に感じられることに対してではない。むしろ作品がジャンル名を名乗ること、あるいは「ジャンルを名乗らない」と名乗ることは重要なことだと思うし、そういう意味ではこの一連に魅力はあっても必要な要素は欠けている。ただ、この一連の形式の曖昧さと、表現の新鮮さはおそらく表裏一体である。言葉のかたまりを短歌にしようとするときに短歌から逃れようとする力がともすればつよくなりすぎるこの作者の作品において、句の欠損、あるいは過剰は逆に表現を純化させるようである。この一連においては、その都度その言葉に必要な定型がワンタイムパスワードのように生み出されている。
掲出した作品をけっきょく短歌として「一首鑑賞」に取り上げているのは、これを川柳ではなく短歌だと言い切る根拠が作品に内在していると判断したわけではなく、「歌集」に入っている作品のうち「これは短歌ではない」という明確な印がついているもの以外は「短歌を名乗っている」と解釈していいのではないかと考えたからである。
というわけで掲出歌。これは「おまけ」についての歌である。夜の暗さ、甘さからみちびかれるようなチョコレートの贈呈、そこにまったくジャンル違いの石田三成がついてくる。これはお菓子にシールやおもちゃがついてくる「おまけ」の、あのよろこびの延長線上にいる石田三成なのだ。あの手のおまけは、もちろんおまけのほうが主役なのだけど、だからといってお菓子を抜きにしてじかにシールやおもちゃが売られるとなぜか台無しになる。おまけについてのその心理的な手続きは、夜とチョコのイメージの近さからの石田三成への飛躍へと重なる。
「夜に」は、チョコをあげる時間帯のようにも読めるし、あげる対象のようにも読めるけれど、この歌においてそれはほとんど同じことなのだと思う。「あげる」という断定に至らない、「あげよう」という意思表示には、暗闇のなかのみえない相手に差しだそう、差しだしたい、という身ぶりだけが詠われている。チョコはともかく石田三成を所有してはいないはずである以上、「あげよう」とすることしかできない。
「あれをあげよう、これもあげよう」とはずいぶん気前がいいようだけど、お菓子とおまけは一対一対応なのでこれ以上は続かない。この先に、真田幸村も伊達政宗も五百円玉も液晶テレビもついてこない。一回きりの「これ『も』」で、一回きりの石田三成。「あれもこれも」という言いかたにまぎれることでしか均衡を保てないチョコと石田三成のペアが、しかし「あれもこれもそれも」とは続かないことが際立つのは、一首が定型の途中で潔く終わるからだ、とはいえるかもしれない。つまり、「続か、ない」とつよく言いきることに十音の欠落が費やされていると。