染野太朗


いざというとき駆けあがって逃げるため「坂」を名に持ち吾は生きおり

逢坂みずき「しおかぜヶ丘」(「2566日目」、2018年)

 


 

「2566日目」についての説明を、この冊子の「はじめに」からまず引きます。

 

 この『2566日目』は、『99日目』『366日目』『733日目』『1099日目』『1466日目』『1833日目』『2199日目』の続編にあたります。東日本大震災から九十九日目の二〇一一年六月十八日、塔短歌会の東北に関わるメンバーが集まり歌会をし、そのときの歌を元に冊子を作りました。それが『99日目』であり、震災から一年を詠んだのが『366日目』、二年を詠んだのが『733日目』、以下、一年ずつ詠んできました。

 

「しおかぜヶ丘」は10首からなる。

 

この「逃げるため」に長く立ち止まった。

 

「いざというとき」というのはもちろん津波のことがまずいちばんに想定されてよいと思うけれど、災害と関連づけなくてもこれは読める。生きていく上でのあらゆる「いざというとき」を想像してよいはず。仕事や学校やその他さまざまな人間関係や状況から「逃げる」ということをポジティブな選択のひとつとしてとらえられるような言説・発言が、このごろはだいぶ増えてきたと思う。弱さや負い目や無責任ということを引き寄せてしまうような行為なのではなく、身を守ったり状況を打開したりするための手段のひとつとしてとらえるような考え方。「逃げる」が従来の「逃げる」では必ずしもなくなってきた。

 

しかし、とは言え、あくまでも「必ずしも」なのであって、「逃げる」はいまだに、それをした本人によって、あるいは周囲の人から、弱さや負い目その他ネガティブな〈評価〉を負わされる行動でもあって、つまり何が言いたいかというと、この三句目にしっかりと据えられた「逃げるため」から読者として導き出せるであろう思いを、どのように言葉を尽くせば語りきることができるだろうかと、なんだか途方に暮れるような気持ちになったのだ。

 

過去において、逃げた人と逃げなかった人と逃げられなかった人。「いざというとき」という未来において、逃げる人と逃げない人と逃げられない人。そのそれぞれに、おのずから負わされてしまうかもしれないなんらかの〈評価〉。それを思うときに意識されるこの「坂」という字の重さはいったいなんなのだろう。その重さを引き受けるかのように据えられた結句の「吾は生きおり」の、語気のしずかな強さと覚悟と、わずかに見え隠れする諦念のようなもの。

 

その答え合わせをするかのように、添えられた逢坂のエッセイには、こうあった。

 

 以前、「震災があってよかったことはないけど、震災がなければ今の自分はないかもしれない」とSNSに書いたところ、原発事故の被害に遭った友人に「あなたは本当に怖いことを言うね」と言われたことがある。
私たちは、あの三月十一日の後を生きるしかないのだ。

 

この「生きるしかない」と、歌のなかの「吾は生きおり」をまったく重ねてしまうような短絡は避けたい。そしてこの結句がまず見せているのは、なんとしてでも生き抜こうとするあまりにも強い意志と覚悟そのものだ。けれども、この一首を読んだとき僕は、「坂」という字がこの人にとっての、「逃げる」ということをめぐる、あるいは「逃げる」という行動が負わされる(負わされた)あらゆる〈評価〉や文脈を忘れない「ため」の、そして引き受ける「ため」の碑のようにも読めてしまって、圧倒されたのだ。

 

ニュータウンのごとくなりたるふるさとをしおかぜヶ丘とでも呼ぶべし/逢坂みずき