二階より眺むる街にひとびとの身に運びゆく季語の多かり

田口綾子『かざぐるま』(短歌研究社:2018年)


 

二階にある飲食店の窓際席から往来を眺めているような場面を想像した。二階の高さから眺める「街」にもさまざまな高さ、角度があるけれど、「ひとびと」にピントを合わせるにはすこし視線を落とす必要があり、それはちょうど読書の際にページに目を落とすような角度だろう。つまりこの歌では本を読むように、いや、「季語」から連想するなら句集を読むように雑踏を「読んで」いる。季節をじかに感じるのではなく、「季語」として抽出されたルールを読みとることで街の文脈にアクセスする。紙をめくる動作をしなくても「ひとびと」は移動していくのでページが疑似的に先に進むあたりがよくできていて、本というより巻物を読む感覚に近いかもしれない。それか電子書籍。
人が身に運びゆく季語はひとりあたりは実際のところそれほど多くはないだろう。アロハシャツを着て、肩に噴水を乗せ、胴体には鴎外忌を巻きつけて、頭にはカワセミを乗せて……というような人はいないので、季節にもよるけれどせいぜい二、三個だろうか。夏場の浴衣の柄とかを想像してみるのも楽しいけれど。つまり、多い、という認識は、季語を運ぶ「ひとびと」の人数的な総量でもありつつ、「あらためて観察してみると季語って思っていたよりも多いな」という発見が詠われているのだと思う。
季語というのは歌人にとっては奇妙なもので、人に「短歌を作っています」というと二言目には「季語がいるやつでしたっけ?」と尋ねられる。歌人は全員尋ねられたことがあると思う。短歌に季語はいらない。だんだん腹が立ってくる。だけど、季節に親しみがない詩型かといえば決してそんなことはなく、あくまで結果的にだけど季語が入っている歌も多いところも座りが悪い。この感覚は、街をゆく人々が意図せず持ち運ぶ「季語」に近いものかもしれず、そう考えると掲出歌で読まれている本は句集ではなく歌集である。季語の存在がかならずしも季節感に還らず、「季語」という概念として浮かび上がるあたりは、俳句に対する短歌側からの批評が淡くあらわれる一首だともいえるかもしれない。
この歌の「季語」は、穴埋めクイズをしてもまず正解がでない名詞だと思う。言葉でも風景でもなく詩型への独特の愛着を感じさせる。それは助詞への凝り方にもあらわれていて、「ひとびとの」の「の」は上句からつづけて読むときには連体修飾格として「身」が「ひとびと」のものであることを意味しているけれど、下句から逆算すると主格として「ひとびと」が「運びゆく」の動作の主体であることを意味する、口語でいうと「が」的な「の」になる。この歌では「街に」「身に」と「に」が二回重なっていて、一首のなかでの助詞の重複は失敗しがちだけど、この歌の場合、二回の「に」にぎりぎりのところでむしろ重奏的な豊かさを感じるのは、通りすぎたあとに役割が変わる「の」のドップラー効果によるものだと思う。

 

カフェオレには砂糖を少し入れて飲む秋にポケットだらけのからだ/田口綾子
燃えるごみ運びし後に燃えるごみとなりて収集所に留まらむ

季語だけじゃない。運ぶこと、運ばれることは田口綾子の歌において重要なキーワードである。自分が運んでいるもの、運ばされているもの、運ばなくてはいけないものへの意識がつよく、それが社会との接点でもある。読み切り漫画のようなコミカルな連作「闇鍋記」すら、登場人物たちがバスに「運ばれて」いる描写によって幕を開ける。ときどき運ぶことに疲れて「ごみとしてでいいから運ばれたい」とか駄々をこねる。
歌をつくるとき、歌を運ぶこと、歌に運ばれることの両面があるというのは実作者には覚えがある感覚だと思う。デビュー作ともいえる新人賞受賞作「冬の火」の時点では圧倒的に歌に「運ばせ」ていた田口の作風は、その後、おもに自力で歌を運ぶほうに変遷したけれど、どちらにせよ「運ぶ/運ばせる」の極端な二つのモードしかないように思える。歌に運ばせるときの力の抜き方、歌を運ぶときの力の込め方、このあたりの適切な力加減は多くの歌人が自然に身につけていく科目だけれど、田口はそれをついに会得していないように思う。
近作では腕力の余りは有機的に利用されていて、ときには連作を物語的に押しすすめる動力になり、ときには文体の過剰さ、大仰さ自体がなんだか風格すら感じさせるユーモアとして機能しているけれど、そういったエンタメ性を田口の作風の魅力だととらえるのは早計である。短歌との駆け引きのできなさから生じているという意味で、この文体のうしろは崖のようなものだと思う。安定しない場所から詠われる景色はまた大きく変わるだろう。うしろに崖を感じること、それがわたしが田口の次の一首を読みたいと思う理由である。

 

旅先にふたりでひとつのトランクを引きゆくやうに君と暮らさむ/田口綾子