平岡直子


飛沫(しぶき)上げ光の中にはしゃぎたるわれのやさしき歌返してよ

大田美和『きらい』(河出書房新社:1991年)
※引用は『大田美和の本』(北冬舎:2014年)より


 

下句でさっと天候が変わる。なにかが致命的に欠損し、その代わりに、どこか定型めいたつくりの上句を破るように下句の肉声が顔をだす。

 

上句から想像するのは水遊びの光景。海辺、川、庭の水まき、遊園地の噴水、なんでもいいけれど、はねあげられた水の小さな粒のそれぞれが日射しを反射する様子まで目に浮かぶ。あかるくて幸福な、そして断片的な一場面である。逆光の写真のようなこの場面が具体的なディテールを持つ前に一首には不穏な影がさし、下句に場面はなく声だけが響く。食い下がるように言い募るこの声は上句のやわらかさに反して口調がつよく、なにかを奪った覚えのない読者までたじろがせる。そういわれても返しようがないのだけど、声の主のほうも、返されようもないのだろう。
なにかが起こった。なにかが上句の光景を損なってしまった。そのなにかは歌のなかには書かれていないけれど、歌の上でも別のなにかが起こっている。下句に出てくる「歌」は、Songかもしれないし、「われ」の鼻歌だったりもするかもしれないけれど、この歌の場合は短歌、それもこの歌自体なのではないかと思うのは、この歌が「やさしき歌」になり損ねているからである。光のなかではしゃいでいるところまでは平穏だったのに、この歌がその光景のトーンのまま「やさしき歌」になる予定だったのだとしたら、それを阻んでいるのは歌自身である。下句の語気が、「返してよ」と詰めること自体が一首を「やさしき歌」から隔てている。
「あかるき」でも「きれいな」でも「たのしき」でもなく、奪われているのが「やさしさ」であることに目を留めると、自らの尾を食べる蛇の絵のようなこの歌の構図にあらわれているのは怒らされていることへの怒りのように思う。「返してよ」といえばいうほど返ってこないものを、しかし、「返してよ」といわないことには返ってこないどころか存在しなかったことになってしまう。歌自体の自家中毒によって、歌の外側にある圧を感じさせられる。それが、具体的な「起こったなにか」に還元されない普遍性をこの歌に保たせている。
下句から読み直すとき、上句の光景には、たとえば「血飛沫」や「閃光」を連想するような尖ったニュアンスが眠っているようですらある。やさしい歌は、もうどこにもない。

 

ちなみにこの歌は「やさしき歌」と題された連作の最後に置かれていて、連作の表題歌ということになるけれど、連作中にはたとえば「飛沫」に関係しそうなエピソード的な歌や、あるいは「やさしき歌」を奪った「なにか」についての具体的な補足になる材料はとくにない。連作自体の主題は恋愛にあり、簡単にいえば恋人と別れたあとの後味の悪さが詠われているので、そこに絡めて読むことはできるけれど、あえてそこに絡めて話を矮小化する必要も感じなかった。