染野太朗


全人類ひれ伏せわたしの背を越して子らが世界を見たがっている

藤田美香「全人類ひれ伏せ」(「福岡歌会(仮)アンソロジー」vol.6、2018年)

 


 

「全人類ひれ伏せ」は8首からなる。

 

しつこくなりますがひとつずつ記していきます。

 

「全人類ひれ伏せ」という措辞は、外見がとても傲慢。それで、こういう傲慢な外見が、照れ隠しになっていたり、皮肉になっていたり、あるいは自己卑下を潜ませていたり、といったことはよくある表現のかたちだと思う。でも、ここではそのどれでもなく、あくまで「子ら」を称えるための〈修辞〉として機能している。「全人類」ということの規模が大きすぎて、もはやこれはイメージの世界のものでしかないし、それが「ひれ伏す」ということももちろんあり得ないし、そして、あとで説明する下の句のたたずまいもかかわって、傲慢という身振りでもって一首内の別のものを補強する、修辞としての「傲慢」になっている。読み取るべきは内容そのものや傲慢さではなく、その「語気」そのもの。

 

「子ら」というのは「これは血縁関係にある子ども?それとも年少者一般?」といった読みのブレを引き起こしがちだと思うのだが、ここではそれも回避されている。「わたしの背を越して」がそれを伝える。「背を越す」というのは子どもたちの成長を表す慣用句のようになっているから、まさしくここではその「成長」ということを端的に伝えるのだが、それが「わたしの」となれば、自分の子どもなのだろうということはおのずから読み取れる。となると今度は、「子ら」という言い方がむしろ自分の子どもに対してちょっと突き放したような、とぼけたような感じのものとしても読める。

 

そして、「子らが世界を見たがっている」。「全人類ひれ伏せ」をもし会話体とするならば、こちらは客観描写の地の文であるという印象が強い。見たが「っている」、というたっぷりとした言い方と、それが一首の締めとして据えられているところに、客観と余情があらわれるのだ。「全人類ひれ伏せ」という傲慢で直情的な外見と対比されるからこその「地の文」「客観」という印象なのであり、「ひれ伏せ」のほうではなく「子らが世界を見たがっている」にこそ一首の重心があるのだと、結句まで読んで気づく。そしてそこからまた返ることによって、「全人類ひれ伏せ」はやはり、この「子らが」以下を印象的に支えるための修辞なのだと気づかされる。傲慢という「外見」をまとうだけであって、ひれ伏せとは思っていない。そのような語気と語彙で表現したくなるような思いをもって「子ら」を見つめている、ということ。

 

全人類がひれ伏している映像を思い浮かべるとき、あまりにもそれは規模が大きい。「子ら」にとって世界は「わたし」、すなわち「親」だけだった。その「子ら」が、「わたし」の背を越して、向こう側にあるその大きな「世界」を見ようとしている。親である自らを離れて、「世界を生きる」ということへの一歩を今まさに踏み出そうとしている。傲慢を脱いだ「全人類ひれ伏せ」というユーモアが後押しして、「子らが世界を見たがっている」という下の句を、風通しよく、しかも大真面目なものとして立ち上がらせる。

 

まっすぐに「わたしの子どもたちは素晴らしい」と宣言し、その成長を称え、世界の真理に到達してほしいという願いを込める。さらに、「わたしの背を越して」にやや肩入れをして読むならば、ここには、「子ら」が自分から離れてしまった、そしてさらに遠くへ行くだろうことのさびしさも感じられるはず。これらを、傲慢も卑下もなく、そのすべてを〈肯定する〉というたたずまいにおいてのみ、この一首はやってのける。

 

……とここまで、思いつく順番に説明してきたのだが、われながら野暮もいいところで、こんなに言葉を連ねなくても、いま記した内容というのはおのずと伝わるはずだ。逆に言葉を重ねるとこぼれ落ちるものが多い。語句同士がシンプルにそして緊密に機能し合っているから、こういう説明は本来必要がないし、説明自体がむずかしい。

 

でもあともうほんの少しだけ。

 

全人類がひれ伏す広々とした映像のあとに「背」とある。そしてこの親はこれから「子ら」を送り出すような立場にある。だから「背を越す」の「背」は、「身長」の意味だけれど、身体としての「背中」もおのずと想像できる。「子ら」が背を向けて自分の前に立っていて、その向こうには全人類がひれ伏していて、そのさらに向こうには「世界」がある(世界には「全人類」も含まれるはずだけれど)。世界、というふうに観念化・抽象化されると、ふつうその「世界」は縮んでしまうけれど、この一首における「世界」は広さも大きさも保たれたままだ。親子関係というものの外側、子どもの成長というもののその先にある「世界」として、現実的な手触りが確保されている。だからこそ果てしない。

 

この人も、おそらく読者も、この「世界」が困難に満ちていることを知っている。それでも「子ら」はそれを知ろうとする。それをただ背後から見守る。「子ら」が一歩を踏み出す。「全人類ひれ伏せ」という語気に〈肯定〉や〈祝福〉を込めて、眼差しにとらえた「子ら」とその成長を肯定している。おそらく「子ら」が一歩を踏み出したその「世界」をも肯定している。(だから「ひれ伏せ」と言いながらたぶん全人類に「子どもたちをよろしくお願いします」なんてことまで思っている。)

 

……このへんでやめます。僕にはなんだかやたらと泣ける歌だった。

 

こやつらは天使じゃないのかつーことは夫とわたしは神じゃないのか/藤田美香

 


 

【お詫び】6月9日に取り上げた内藤明さんの歌の引用に誤りがありました。訂正し、文章も一部変更いたしました。