平岡直子


マネキンの首から上を棒につけ田んぼに挿している老母たち

虫武一俊『羽虫群』(書肆侃侃房:2016年)


【最初にお詫び】前回6/11に取り上げた柳谷あゆみさんの歌に誤記があったため、引用歌を訂正した上で文章を一部修正しました。



歌集『羽虫群』の帯に太字で書かれているのは石川美南による「おれの生きかたを、笑え」という帯文である。的確なキャッチコピーだと思う。この歌集の主人公は内向的で自己評価が低く、それに釣りあうようにいわゆる社会的なスペックもちゃんと低め。〈生きかたが洟かむように恥ずかしく〉〈息したらもう有罪〉〈持久走最下位〉〈三十歳職歴なし〉次々と繰り出されるあまりにネガティブなフレーズの数々はたしかにユーモアとして機能している。そして、ときには過剰すぎるほどの「自分は下層にいる」という意識の裏側に貼りついているのは、そういった存在が種として淘汰される仕組みへのねじれた抗いだと思う。
掲出歌で描かれているのは案山子を設置する農業従事者の姿である。案山子といえばすぐに思い浮かべるのは磔の体勢で笠と着物を着せられている牧歌的な外見のあれだけど、ビジュアルが現代的にアップデートされた案山子もわりあいみかける。無意味に手の込んだものから、鳥たちもいくらなんでもこれを人間とは思わないだろう、という雑な作りのものまであるなかで、マネキンが使われているのも実際に何度かみかけたことがあるけれど、マネキン製の案山子は雰囲気がかなり怖めで不意に視界に入るとけっこうぎょっとする。しかし、たんたんと生真面目に案山子設置作業を説明する掲出歌は、そのマネキン案山子の珍しさや不気味さを切り出すことを主眼にしているようには思えない。案山子を置くことが田植えの延長線上にあるかのようなこの歌から連想するのは挿し木である。首から上を挿しておいたら、うまくいけばそのうち根が伸びて胴体が育つのではないか、人間とはそのように生産され、収穫されるものなのではないか、という発想。「老母たち」はかならずしも自分の実母を含むものではなく、ある特定の世代と属性を括る言い方として選ばれたものだと思うけれど、その曖昧さも、彼女たちがマネキンの母役であるかのように錯誤させるだろう。

雨がみな進化の果てに針となる妄想のずたずたの情婦たち

刺すものがモチーフとして登場し、ある「女たち」を括る体言止めが最後に置かれるという構造的な共通点のほかに、繁殖に対する態度が掲出歌と似ている歌をもう一首引いてみる。まず「雨が進化する」という言いかたは最初からちょっと飛ばしていて、気象現象である雨を独立した生物のようにとらえますよ、という部分の手続きがスキップされて話がはじまってしまうけれど、それでもついてはいけるのは、雨が進化して針になるというのが「雲はふわふわの椅子かも」などの空想の亜種というか、どこか子どもの無邪気な想像のような趣があるからだと思う。
下句の「情婦たち」に、針にずたずたにされているにもかかわらずミソジニーをあまり感じないのは、情婦という日常で聞きなれない言葉にわたしが個人的に映画「情婦」の強かな主人公をどうしても思い出してしまうせいもあるかもしれないけれど、雨が針になったりしたらだいたいみんな滅びていそうだからでもある。この情婦たちは針の攻撃対象として選ばれているというより、この世界の「最後の生き残り」のように感じられる。情婦=婚外の女性は、社会的、法的な制度のなかでいえば生殖から疎外された、あるいは生殖を負わされない存在である。雨が生きもの化した上に進化までした世界線に適応、共存ができるとしたら、従来的な生殖が前提とされていない彼女たちだけなのではないか、という回路がこの歌にはあるように思う。
生態系にせよ、人間社会にせよ、淘汰が起こらないようにするには繁殖や進化の仕組みを根本からひっくり返すしかないけれど、それはゆるやかな淘汰どころではなくより直接的に自分の存在を否定することでもある。その事態をゆめみるような、同時におそれるような揺らぎが、これらの歌には遠慮がちに反映されている。