平岡 直子


イエスは三十四にて果てにき乾葡萄噛みつつ苦くおもふその年齒(とし)

塚本邦雄『装飾楽句』(1956:作品社)
※引用は『寵歌変』(短歌新聞社:2005)より


 

生きているだけでなにかを追いこしていってしまう。いつのまにか高校球児を追いこし、サザエさんの年齢を追いこし、坂本龍馬の享年を追いこす。そういったメルクマールとして意識されがちなのは一般的には歴史上の英雄や、夭折のロックスターや詩人で、イエス・キリストの没年をつよく意識するというところにいささかの感覚の特殊さを感じるのは、親近感を抱くには相手がちょっと大物すぎるというだけではなく、ジャンルを人間としていいのかよくわからないとか、死ののち復活したりもするらしいとか、いろいろと話がややこしいからだけど、そういうややこしい要素をはぎとってあえて素裸の青年としてみるようなまなざしが新鮮な歌だともいえるだろう。
人は社会的には年齢によって分類、分断されつづけるけれど、考えてみればこれは奇妙な習慣で、他人とは相対的な一年の長さも違えば、体感時間も違う。ましてたとえばイエス・キリストとは、時代的にそもそもの平均寿命が大きく違うだろう。それでも年齢が強固な基準として存在するのは、便宜上、なにかの指数は必要だからだ。短歌が五七五七七の三十一音でありつづけるのと同じことだ。年齢の数え方も、定型の音数も、その単位が採用されたことにはさまざまな理由や必然性はあるけれど、その単位が存続しつづけるのは、なにかそういうものがないと困るからだ。短歌の言葉の容量が一律であるようにみえるのも、遠い昔に死んだ人を自分が追いこしてしまうように感じるのも、そのルールがもたらす歪みだ。
イエス・キリストが葡萄酒を「わたしの血」だとするたとえ話をしたというエピソードは有名である。葡萄が彼の肉体なら、乾葡萄はさしづめミイラのようなもので、それを口のなかで噛み砕くのは、その死の小さな追体験、残虐なダメ押しでもあると同時に、どこか慈しむような行為でもあるように思う。本来は甘いはずの乾葡萄が苦さにひっくり返る風圧で味覚から感情の苦さへと話が一変し、口のなかでその感情が咀嚼されているようである。この苦さは、自分がその年齢を追いこしてしまうことへの苦さだろうか。
三十四歳で果てた人を詠った歌が三十四音でできている(ただし「三十四」を「さんじゅうし」と読んだ場合の話だけれど、一首全体にi音が多く、要所にはとくに「し」が配されていることを考慮すると「四」も「よん」ではなく「し」でいいように思われる)のは偶然だろうと思うけれど、それでもこの歌を読むとき、歌の寿命について思わずにはいられない。この歌に、ある夭折願望のようなものが宿っているとしたら、それがかなわない「苦み」のほうに文体との一致を感じる。塚本邦雄の歌は、ほかの誰の歌よりも追いこしていく歌、延命の歌だと思うから。句の切れ目を追いこして 息の切れ目に意味を吸収させないことで次の句に言葉を持ちこす、その繰り返しで歌が延命される。そして、そのことが現代短歌自体を延命させたのだとも思う。