佐藤文香・高山れおな「君とうたへば」(「現代短歌」2018年9月号)
「現代短歌」の毎月の企画「二人五十首」。文字どおりふたりで50首を詠んだ連作である。今回は俳人の佐藤文香と高山れおなが、交互に25首ずつ詠んでいる。
今日の一首は佐藤の作品として連作に並んでいる。
雨脚に都バス同士がすれちがう道の細さをたしかめながら 佐藤
〈旬の手を振りあふ都バス運転手〉攝津幸彦
そはつひに君にはあらで或る白き旬の手が剝く枇杷が食べたい 高山
枇杷の葉は日差しに透けず測量の人たちが集まって笑った 佐藤
今日の一首の二首前から引いた。攝津幸彦の句は、高山の歌に詞書のようにして添えられたもの。一首目、「道の細さをたしかめながら」から、都バスが狭い道でぶつからないように慎重にすれ違うさまが見えてくる。そこには雨が降っている。この歌が、俳句の挿入によって、あきらかな人間関係の歌へと転換する(ここに挙げたものよりさらに前の歌を参照すれば、文脈上、佐藤のこの「都バス」の歌はそれだけで人間関係の歌として十分に読めるのだが)。すれ違いながら手を振ってお互いを確認し合うバスの運転手。しかし、そのように手を振り合う相手はついに君ではないのだ、と高山の歌は言う。夏の季語としても意識されているのであろう「枇杷」の提示ののち、今日の一首に至って、バスと細い路地を包んでいた雨はやみ、日が射してくる。バスも消えてしまって、その日差しとともにいるのは運転手ではなく「測量の人たち」。……この三首のそのような文脈と連作全体から、歌の主体同士の関係性を読んでいくのもおもしろそうなのだが、僕が考える今日の一首の魅力はそういうところにはない。この一首だけで十分に味わえる。
民家の庭に植えられている枇杷の木。その葉が、細い路地にはみ出している。工事関係だろうか、その路地で測量その他の作業をしていた人たちが、昼の休憩かなにかで、日差しを避けて、枇杷の葉によってできた影のあたりに集まって談笑している。……というような場面を、例えば想像してみる。
この一首の要はまず、「透けず」という語がやたらに目立つことだと思う。否定形で捉えられるそれは、日差しが透けることとの対比によるものだから、つまり対比しているという点において、そこにはあきらかな意思・意識が感じられるのである。枇杷の葉の厚みやその繁り方によってさえぎられてしまう日差し。けれどもその「日差し」そのものや「測量の人たち」による笑いは、一首を覆う光量をあくまでも高いままに保つ。測量をするということ、つまりなんらかの動作を伴っていた身体や、そのような身体が複数で集まっているようす、また、揺れうごく枇杷の葉のつやや色の濃さは、その光の下で、やはり生き生きとした印象を保つ。にもかかわらず、主体の眼差しは、日差しに「透けず」、ということのほうに向けられている。また、「測量の人たちが集まって笑った」という描写そのものもかなり特徴的だ。昼休憩かなにかで集まっている、と上に読んだが、それは読者としてかなり補った読み方であり、「集まって笑った」は、「測量の人たち」の具体的なようすの見えにくい、画素数の低い、肌理の粗い、抽象的と言ってもよいような描写であり、それによって主体が、あるいは遠くから、もしくはあまりそこには意識や感情を向けずにぼんやりとその景を見ているような、淡い印象をもたらす。場面としてはこんなに鮮やかなのに、である。そもそも「測量の人たち」ということば自体、何を目的としてどのような作業をしている人たちなのか、実はわかりにくいものだ。つまりこれも、画素数の低い捉え方。輪郭が淡い。「測量の人」という言い方そのものは、フォルムとしてこんなにも独特で、一首のアクセントにもなっているのに。だからこそ、翻ってやはり「透けず」という打ち消しは目立つ。語のフォルムでなくて、内容として目立つ。それだけが主体の内言として、「枇杷の葉」や「測量の人たち」やそれを包み込むような日の光に隔てられた、何かしらの暗い心情を導いているような気がする。「集まって笑った」といういかにも散文的な、ぶっきらぼうであるような淡々とした収め方も、「遠くから」あるいは「意識を向けず」「隔てられた」といったような印象を補強している。
「透けず」というたった一語がやけにきめ細かく景や心情を指し示す。また「測量の人」という言い方も歌のことばとしてやたらと独特であると思う。しかし主体の眼差しが読者に見せる景は、どこか淡く、ぼんやりとしている。文体も含めて、とても印象的な歌だった。