平岡直子


もう少し前に進まうとりあへず西友に行き砥石を買つた

水上芙季『水底の月』(柊書房:2016年)


 

「もう少し前に進もう」という小さな決意をするとき。これは、その決意ののちに物理的に前に進んで西友に行っているからと言って物理的な前進の話ではなく、なにか気分が停滞している、膠着している、長居したくない精神状態にいる、そこを抜け出したい、ということだろうけれど、そういうときの行動として「砥石を買う」のは精度の高い正解だと思う。刃物研ぎのようなリズミカルな単純作業にはそれ自体気分を切り替える効能があるし、一般人が研ぐ刃物はおそらく包丁だけど、台所回りの質を底上げすることは台所をまあまあ愛している種類の人にとっては生活の質の小さな向上、荒んだ気持ちの潤滑油になりうるもので(台所をとても愛してる人の台所にはすでに砥石はストックされてるし、あと買い足すときもたぶん西友では買わない)、それでいて、買うだけで気が済んで放置しておいたとしても責めてこないアイテムである、という感じもする。「必需品ではない実用品」という遠回し感が、「もう少し」や「とりあえず」のステップに合っているんだと思う。生活の処方箋として正解であるだけでなく、こういった効能をたっぷり含みつつちょっと意外な名詞であることが、歌の題材としてもまた正解だという感じがする。
「買った」で終わる掲出歌には往路しか書かれていないけれど、砥石の上で刃物が往復する動きと重なるように復路が予感されるとき、それは前進ではなく元いた場所に戻ってしまうだけのようにもみえながら、その動きによって刃が「少し」研がれるのと同じように、なにかの変化の兆しではある。

 

「正解」というのは短歌にとっては諸刃の剣で、あまりに正解が置かれると一首が解答欄のようにみえてきてしまうことがある。掲出歌を解答欄化させていないのは「西友」の力なのではないかと思う。

 

おじさんは西友よりずっと小さくて裏口に自転車をとめている/永井祐
戦争はきっと西友みたいな有線がかかっていて透明だよ/宝川踊

 

話はちょっとずれるけれど、なぜか西友が出てくる歌はいい歌が多い。しかもこれらの歌は、いい歌にたまたま西友が出てくるわけではなく、西友によっていい歌になっていると思う。西友という言葉の魅力はたぶん意外と複雑で、固有名詞であることそれ自体の強みだけでなく、「昔ながらの商店街」的な場所と「新興のショッピングモール」的な場所のちょうど中間くらいの絶妙にリアルな生活感があり、無印良品の搾りかすのような哀愁があり、漢字、しかも音読みという、今どきのスーパーの名前にしては古風で硬い見た目をやわらかく抜けていく「せいゆう」という音だったり、なんというか、あかるいガラスの表面に無数の細かい傷がついているような微妙なニュアンスを感じさせられる名詞だ。
あるいは建物の四角い印象(西友はロゴもブロックっぽいし「西」の字も角ばっている)と相まって、掲出歌で砥石と西友のイメージが重なるときに、一首の影の主役が西友であることがはっきりする。歌の主人公が、西友から西友的エッセンスを砥石として取り出して持ち帰るただのお使いにみえる角度がある。その角度がひとつの「正解」を無効化することが、この歌の強みなのだと思う。