酒とジュースのハーフはつねに酒なれど遺伝子はわれと子を分かちたり

小島一記「酒とジュース」(角川「短歌」2018年9月号)

 


 

「酒とジュース」は7首からなる。

 

自分の子どもは自分の遺伝子を(半分は母親からのものであるけれども)受け継いでいるものでありながらそれでもまったく別々の個としてそこに存在しているのだ、というところに意識を向けてそれをことさらにふしぎがっている歌、そこに感慨を得ている歌、というふうにまずは読んでみる。分かたれていることに意識が向いているから、そこから照らしてむしろ子との遺伝子レベルでのつながりや一体感のようなものをつよく感じている、というふうに読めなくもない。

 

ただ、それよりまず目立つのはたぶん上の句のほうで、酒とジュースを混ぜたものは結局酒ということになってしまう、というのは、似たような別の例も含めてよそでも聞いたり読んだりすることはあるものの、やはりちょっとした発見としてインパクトがあるように思う。

 

「なれど」でつないでいるけれどももちろんその前後に本来因果関係はまるでなく(ありそうに見せることによってたとえば「「酒」は何の比喩?」「遺伝子によって分かたれるのは実はとてもふしぎなことなのだな」などと力を込めて読み解きたくなるけれども)、だからこそこの理屈っぽさとその「因果関係はまるでない」というところにはちょっとふざけたニュアンスがにじむ。上に記した「つながり」「一体感」が感じられたとしても、この歌の中心はそこではなく、「なれど」による強引な上の句下の句の関係の創出、つまりユーモアのほうにあるのだろうな、と考えられる。それによって「遺伝子はわれと子を分かちたり」のカタさも、真顔を保ったまま、難なくユーモアに転ずる。ユーモアにくるむことで子との一体感(という、あるいは子へのやや粘着質な心寄せとして薄気味悪ささえともなうもの)や愛をむしろまっすぐに表現してみせた、とうふうにとらえてもよいのかもしれない。

 

……というふうに内容を読んでいくとどうしても発見とかユーモアとか、あるいは子への愛情や距離感といったことが前面に出てくるけれども、この一首を読んで僕がまず思ったのは、表現の仕方そのもののさりげない巧さ、技術としての細部の巧みさについてだった。もちろん「なれど」もそれにあたるのだろうけれども、そのほかにわかりやすいところで言えば、たとえば「ハーフ」。上で僕は「混ぜたもの」などと言ったけれども、この「ハーフ」という言い方は、その(同量を)混ぜたということや、いかにも酒の話だな、もしかしたらこれは飲み屋で思いついたことなのかもしれないな、といったことなどをそれだけで簡潔に伝え、想像させるし、この言い方そのものにもユーモアは感じられる。日常語としてのニュアンスをうまく利用しているわけだ。

 

冷凍の鰺の開きの帯びし霜朝のシンクに払いていたり
梅の実はただ歳月を漬かりおり広口(ひろくち)瓶に芽吹くことなく
歯をあててグラスの水を飲んでいる子の力みかた妻にそっくり

※( )内はルビ

 

同じ一連から。助辞も含めた細部の、巧みでそれゆえに手堅い描写が、景や動きの全体にいきいきとした表情を与えているように思う……と言うとむしろ歌それぞれの個性が消えてしまうのだけれども。「子の力みかた」なんて、歯をあてている姿からだけでは想像がつかないのに、「妻にそっくり」という結句の促音と口調、またそういうオチのつけかたによって、その質感、感じだけは読者として体感的に理解できるのがなんともふしぎだ。